2021/10/25

 すっかり寒くなって、秋はどこへ、という趣。

 今日は在宅勤務。
 お昼にテレビをつけたら、教育テレビで芝翫さん親子の『お江戸みやげ』(先代芝翫さん没後10年追善)をやっていて、途中からだったけど最後まで全部見てしまった。
 芝翫さんといえば立役の印象が強いが、今回演じられたお辻さんはこよなく優しくて素敵で、こんな女性がいたら憧れてしまうなと思った。副音声の解説では、勘九郎さんの横顔が七代目に本当にそっくりになってきた、といったお父さんらしいコメントもあり、胸が温かくなった。舞台でお辻さんが七之助さんの坂東栄紫にかける「いい役者になってくださいよ」という言葉、淡い恋心を抑えきったお辻さんの大きな愛と、芝翫さん自身の親心が、溢れんばかりに込められていたと思う。

 ふと覗いたTwitterで、「女史」という言葉の差別性が話題になっていた。震源地を深くは追っていないが、たまたま見かけたのは、「女史」は敬称であって差別用語でもなんでもなく、それが通るのであれば(*差別用語だと言うのなら、の意だと思われる)この世の「女」とつく言葉のすべてが差別用語という事になろう、という趣旨のツイートだった。
 「女史」という言葉が、今では概ね、女だてらに偉そうに幅を利かせている女、といったニュアンスの揶揄を含んで使われていることくらいは、さすがにそこそこ共通認識なのじゃないか。
 実際、「女史」という言葉は、性差別的な表現(女性を特別視する表現や、男性側に対語のない女性表現)として記者ハンドブックにも挙げられているとのことで[1]Sayaka Chatani on Twitter: “ちなみに、「女史」は性差別の例としてあげられるほどの差別表現として、記者ハンドブックに挙げられています。 … Continue reading、これを敬称だと言い張るのはよほどの無知か悪質な詭弁だろう。

 男性側に対語のない女性表現だからこそ差別用語であるわけだけど、むりやり似たような例を挙げるなら、「大先生」といった表現を、まったく揶揄を含まない敬称だと言い張ることはできまい。
 それでも「女史」は敬称だと言い張る人には、これから先、貴様のことをずっと大先生と呼んでやるわバーカ、くらいは言ってやりたいかな。

 わたしもときどき「女史」をつけて呼ばれることはこれまでにもあったが、いい気はしなかったし、むしろその度にちくちく傷ついていたように思う。
 可愛げがない女と言われようが、偉そうに幅を利かせていると思われようが気にするな、言いたいやつには言わせておけ、自分だったらそんなことは気にしないけどな、みたいなアドバイスもいただくのだけど、それをありがたいと思ったことはない。
 近寄りがたくてチャーミングでない人間のように揶揄されるのは、わたしにとってはつらいことだったし、そんなことをつらいと思っていては、進歩的な女性としての資格はない、みたいに(特に同性から)決めつけられるのはもっといやだった。
 「男だったら泣くな」みたいな規範が、”女だてらに” 行動する女にも押しつけられるのがいやだった。
 揶揄されることにいちいち傷ついていてはやっていけないような世界などクソ食らえと思っている。
 
 今日はリングフィット17分。腹筋ローラー10回×3セット。
 今日の昼は、豚肉の生姜焼き、にんじんステーキ(皮むいて4つ割りにしたにんじんを、にんにくと塩胡椒とオイルでじっくり焼いただけ。めちゃくちゃうまい)。
 今日の夜は、Kit Oisixの鍋キットで鶏肉と野菜の白味噌鍋。