この仕事をしていると、つい頭が数週間〜数ヶ月先の期限を考えがちになるのだけど、まだ8月も半ばを過ぎたところだった。あまり生き急がないように、地に足をつけて日々暮らすようにしよう。
前線の活動が少し弱まって、今日の東京は晴れ間が多かったが、それでも昼には突然の大雨。まだ前線は停滞しているので、各地の豪雨被害は依然心配。
新型コロナの感染拡大スピードはとどまるところを知らず、今日も国内の新規陽性確認数は過去最多。
9月からの新学期に向けて、首都圏の公立学校の対策も検討され始めた。実は内心、パラリンピックを控えて、教育行政の動きはもっと遅くなるのではないかと心配していた。でも、子供たちの健康と学びを維持する取り組みがなおざりにされていない(らしい)ことは、去年より進歩していると言えるかも。
ただ、感染拡大と医療逼迫の状況はまったく安心できるものではなく、東京では、家族全員が自宅療養していた中、40代のお母さんが命を落としたという痛ましい事故が起こってしまった。これまでよりもさらに警戒のレベルを上げて自衛しなければならない状況だが、国と都はいったい何をしているのだろう。
緊急事態宣言発令地域の拡大を受けた昨日の菅総理の会見も見たが、感染者数を能動的に速やかに減らす気が、政府にはまったくなさそうなことはわかった。デルタ株の感染性が高いこと、ワクチンの効果が当初期待されていたよりも限定的であること、今後さらに危険性の高い変異株が生じる危険性があること等の不都合な情報はすべて遮断して、都合の良い可能性だけをピックアップし、あとは医療に丸投げしてなんとかしろ、というふうに政府の方針は見える。
積極的に感染を減らそうとはしないということは、要するに、感染に伴って必然的に生じる死や障害を受け入れろと市民に要求しているのに等しい。しかし政府は、具体的にどのような不利益を市民に受け入れさせようとしているのか明言せずに、それらが既成事実として受け入れられたことにしようとしている。あまりに不誠実ではないだろうか。
前政権から今に続く政府の不誠実さ、そして市民の悟性の軽視はいったいどういうことなのだろう。
たとえば最近でも、警戒すべきとされるラムダ株が日本で発見されていたことに関し、オリンピック開催に伴って公表が遅れたということがあった。これについて、政府は「コロナについては国民もさまざまな関心や不安を持っている。公表のあり方について早期に結論を得て、不安解消につなげたい」と述べたというのだが、ことは不安だけの問題ではない。なぜ政府は、政策への批判をことさらに国民感情のみに帰そうとするのか。
感情的であることが悪いことであるとは思わない。しかし、政府がことさらに国民・市民の感情的な反応を強調しようとすることについては、あえて国民・市民の悟性や理性を低く評価して見せつつ、形だけ「感情に寄り添う」細やかさを演出しているような、極めて姑息な小賢しさが見て取れて受け入れ難い。