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映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(ネタバレあり)

ようやく見てきた。

子供のころから妖怪も鬼太郎も大好きで、小学館の妖怪シリーズ(鬼太郎大百科とか妖怪大図解とかのアレ)を読み込み、アニメ鬼太郎(3期)も夢中で見て、夏休みのプールには下駄履きで通い、長じてからは水木しげる漫画大全集ももちろん買ったくらいのファンにもかかわらず、ずいぶん遅くなってしまった。

鬼太郎・目玉のおやじ・猫娘・ねずみ男たちがアニメ6期と同じキャラクターというだけでなく、人間批判を強めた物語の精神がアニメ6期としっかりつながっている。しかしここまでつらい話になっているとは思わなかった。
わたしより先にお友達と見ていた子供に「こんなにつらいなんて、先に言ってよ~」と訴えたら、「そうでしょうそうでしょう、つらかったねえ」と慰められたのだが、同じ思いを母にも味合わせて、じゃなくて共有できたという、してやったりのニヤニヤ顔がなんとも。

以下ネタバレ。

個人的にいちばん熱かったのは、霊毛ちゃんちゃんこ爆誕のシーン。
あのちゃんちゃんこがご先祖様の霊毛でできているというのはみんな知っていることだが、いつ、誰が、どのようにして作ったのか、という詳細は今まで明かされていなかったと思う。
それが本作で明かされた。そしてこれが「ゲゲゲの謎」につながるのだ。

幽霊族たちは、人間の欲に虐げられ、搾取され続けて、もはやまともに生き残っているのは鬼太郎の父(ゲゲ郎)のみ。かろうじて生き残っている鬼太郎の母を助けようと、ゲゲ郎は怨念渦巻く敵の本丸に、相棒・水木と共に乗り込む。絶体絶命のピンチのそのとき、母の胎内で鬼太郎が泣き声を上げるのだ。
その声に呼応して、もはや屍と成り果てていた無数の幽霊族たちが思いを込めた霊毛を放ち、編み上げられたちゃんちゃんこがゲゲ郎を守る。鬼太郎に受け継がれたちゃんちゃんこはこうして生まれたのだ!

なぜ鬼太郎一族に幽霊族たちの思いが託され、彼らがヒーローになったのか。まさしくゲゲゲの謎そのものではないか。

それにしても、横溝正史や江戸川乱歩はもちろん、最近であれば『マイホームヒーロー』など、隔絶されたいわゆる「因習村」を舞台にした作品は数多くあるが、本作ほど救いのないものも珍しい。
時弥くんは最後に少し浮かばれたようだったが、沙代ちゃんは……。あれだけの人を殺した報いといえばそれまでだが、あまりにもつらい最期だった。

以下小ネタ感想。

・本作の水木には腕がある。腕がある水木サン自体は、水木しげるの心象風景として、たとえばコミック『昭和史』などにもときどき登場するから、本作の水木もまた、水木しげるの心象風景という設定なのだろう。しばしば登場する戦争中のエピソードは、水木しげるが繰り返し語ったものとほぼ同じだ。

・水木が、子守のばあさんに妖怪の話をよく聞いていたと語るシーンもあった。のんのんばあという名前こそ出なくても、観客の多くが彼女の顔を思い浮かべただろう。
 ゲゲ郎と水木が墓場で酒を酌み交わしているとき、ふわふわと青い炎の妖怪が彼らのもとに降りてきた。あっ、つるべ火、と思ったとき、水木も「つるべ火……」とつぶやいた。水木はちゃんと「知っている」のである。ここでも少し胸が熱くなった。

・水木とゲゲ郎が出会った当初、水木がゲゲ郎との約束を破ったシーンがあった。人間にだまされたことを知ったゲゲ郎の怒り方が鬼太郎のそれとそっくりで、これは「幽霊電車」か「地獄流し」の刑まったなしなのでは、とヒヤヒヤしながら見ていたが、結局ゲゲ郎は、自分の身代わりに水木を座敷牢に押し込むくらいで済ませてやっていた。やさしい。

・鬼太郎といえば体内電気である。体内で電気を発生させ、それを敵に流して倒すのだ。
 ゲゲ郎が最初に狂骨に飲み込まれたときはなすすべもなく力を奪われてしまい、あれっゲゲ郎は体内電気使えないのかな、と思ったのだが、次に飲み込まれたとき、ゲゲ郎は自らの胸に手を当てて電気を発生させて逃れた。
 鬼太郎の解剖図によれば、鬼太郎の体内にある「発電袋」という器官が体内電気の源なので、父であるゲゲ郎の体内にも同じものがあったのだろう。ゲゲ郎はそれを自分で覚醒させたのだろうか。

・エンディングテーマは、『カランコロンの歌』がモチーフだった。大好きな歌だ。ご存じない方はググってみてください。

・声優さんたち最高でした。関俊彦さんが、少し声を高めに演じていらしたのも、いずれ目玉になる感じがしてよかった。そしてとにかくかっこよかった。さらに、鬼太郎と鬼太郎の母の両方を演じた沢城みゆきさんが素敵でした。

『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ – 性と身体をめぐるクィアな対話 – 』(森山至貴 / 能町みね子)

読んだ。

ちょっと前に『トランスジェンダー入門』を読んだときには、自分がいかに何もわかっていなかったか/わかった気になっていたかと、”蒙を啓かれる” 思いでありがたかったものの、そうやってまたしても啓蒙された気になってしまう自分自身への警戒心に加えて、実はところどころしっくりこなかった部分もあった。

『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ』は、そのしっくりこなかった部分も含めてさまざまな「しっくりこない」エピソードがふんだんに語られていて、しかもわかりやすい解決っぽいものの道筋も示されていないにもかかわらず、ものすごくいろんなことが “腑に落ちた” と思う。

自分とは異なる部分が多い性について知りたいと思いながら手に取った本なのに、なぜかセクシュアリティーだけじゃなくて自分が普段抱えているいろんな「しっくりこなさ」を鮮やかに切り出してもらえたという不思議な経験をしてしまった。

人が変わっていくとか揺らぐことをきちんと考えよう、というのがとても重要

私たちは、話が単純な公式にされそうになるといちいちぶった切って、「そんなにシンプルじゃない、こんな例もあるんだよ」という混ぜっ返しをずっとしていると思います(笑)

「ままならなきものを、ままならなきままに生きる自由」

そしてもちろん反抗心。

『卒業生には向かない真実』(ホリー・ジャクソン)

 読み終えて呆然としてる。一作目の『自由研究には向かない殺人』のときは、のんきに「爽やか青春ミステリ」などと言っていたけど、トリロジー完結編の本作でここまで来るとは思わなかった。

 最初の「犯人」の見当がつくのにそう時間はかからなかった(4割くらい読んだあたりだったかな)ものの、その後がとんでもなかった。
 主人公に対する読者の愛と信頼が終始試されるから感情がぶんぶん振り回されるし、一方でトリックの穴にも目を光らせないといけないから頭も使いっぱなし。これから取りかかる人は、すごくハードなスポーツに取り組むときのような覚悟を決めた方がいいかもしれない。

読み終わった

『妾と愛人のフェミニズム 近・現代の一夫一婦の裏面史』

 最初の方を読みながら、「結局のところ、誰の子を誰の子より優遇するか、そのことをどう正当化するか、という思想なんじゃないか」とおととい書いたが、それは大間違いで、この本の主眼はそこにはなかった。「家」や「家父長制」にすらない。
 むしろ、夫・妻・妾/愛人たち、それぞれの意識、立場、世間的なイメージの変遷を個別に解きほぐしていくことで、(日本の)一夫一婦の奇妙ななりたちを描き出しているのがおもしろいところだ。

 おそらく本書のキモはここ。

「夫の生産労働を支えていたのは、家にいる妻の再生産労働だけではなかったということに私たちは気づくべきなのである。……(中略)……フェミニズムは、妻の再生産労働の経済的価値が無視され、無償労働として不当に評価されていることを問題視してきたが、愛人の立場からみれば、そもそも夫と妻の二大労働が一つの組になり資本主義社会を支えているという認識自体に疑問符をつけなければならない。婚姻関係の外部に存在する愛人が、実は既婚男性の仕事を支えるパートナーとして、妻とは別のところから彼らを支えていたという見方が浮上する。すなわち、私たちの認識から外されていたこと、見えていなかったこととして、経済的に自立が可能な家の外の愛人によって、もう一つの労働がおこなわれていた事実をここでしっかり踏まえておきたい。」 

 そうは明言されていないものの、男性中心の旧来のお仕事の世界では、「愛人」の概念は、特に性愛のつながりのない同僚・上司・得意先/下請先にまで広げられる業界もあるかもしれない。

 しかし、先の引用は特に戦後の愛人をめぐる記述だが、この状況下では、妻という立場には何のメリットもないな、というのが率直な感想だ。
 夫は、家の内と外で異なる女性に支えられつつ、金を稼ぎ、情緒面でも満たされた生活を送ることができる。愛人は「糠味噌臭い妻の立場」に立つことなく「おいしい生活」を満喫することができる。ここまでは本書でも述べられている。
 えっ、じゃあ妻は? 
 経済力がない妻であれば、夫に養ってもらうというメリットはあるだろう。本書でも、戦前の話として、妻は愛人の存在を契機に婚姻関係を維持・発展させる傾向があったこと、円地文子の小説『女坂』のように、妻が妾の生を簒奪しながら一家の支配人としての地位を確立していくありさまなどが紹介されている。
 だが、現代の経済力ある女性はどうだ。愛人ではなく、わざわざ婚姻することで得られるメリットはあるだろうか。この点について、本書は特に踏み込んでいない。が、いまや、経済力ある女性には、妻として一夫一婦を維持する積極的な動機はもはやなさそうだと読み取ることは、たぶん容易だ。

 最初に述べたとおり、本書では、「家」や「(子供のいる)家庭」についてはほとんど語られていないので、ここから先はわたしがあれこれ考えたことになる。
 素人ながら推測すると、現代において婚姻関係に入る動機としては、ロマンチックラブイデオロギーにふんわり影響されつつ、パートナーと家族を作りたいというのが最大だろうとは思う。
 とにかく子供のいる家が必要だから結婚しようと思うカップルはいまどき少ないかもしれないが、婚外子への風当たりがまだまだ強い日本では、いずれは子供を、と思うのなら、結婚した方が社会的に楽そうではある。そもそも子育てには人手と人の愛が必要だから、一つ家の中で子供に関わる大人は多い方がいい。その大人が、気心の知れたパートナーであればもっといい。
 それでも、母親から見てその大人が「夫」でなければならないものかどうかは、ちょっと考えてみてもいいのかもしれない。その夫が、女性なり仕事なりその両方なりを「愛人」として家の外に持ち、家事育児に関わらないのであればなおさら、母親だけが「夫の妻」でいなければいけない理由はなさそうだ。

 たいそうやばい不穏なことまで考えてしまったが、べ、べつにわたしが今すぐ「妻」をやめて今の家族を解体しようなんて考えてるわけじゃないからね……。でも、著者の石島亜由美さんには、今回の「一夫一婦の裏面史」を踏まえて、さらにそのあたりの不穏なところに踏み込んだ論考を提供してもらえればエキサイティングだろうなと期待している。

 一夫一婦が解体されることがあるなら、それは妻側からかもしれない。

読んでる途中

『妾と愛人のフェミニズム 近・現代の一夫一婦の裏面史』

Twitterで流れてきて気になって読み始めた[1]ふじさわ📚編集者さんはTwitterを使っています: … Continue reading

“筆者がフェミニズムに接近した理由の一つに、「男性の視線のなかで女性が女性を価値づけること」の暴力性を感じる経験があったことを挙げる。それは、男性から差別(暴力)を受ける女性という男/女の非対称の関係性、<男から女>という直線的な暴力性ではなく、その差別や暴力にほかの女性が加担しているということ、男性の視線を内面化した女性が別の女性を価値づけることの暴力性というものである”

と冒頭ではっきりと述べられている「研究の動機」が、わたしにとって、ああ、そう、それ! と思えるものだったこともあって、おもしろく読んでいる。

まだぜんぜん最初の方だけど、今に至る、そしてあまねく浸透しているこの暴力的な差別の根底にあるのは、結局のところ、誰の子を誰の子より優遇するか、そのことをどう正当化するか、という思想なんじゃないか。男尊女卑は、その思想を支持するのに便利な理論かもしれないが、そこに「共犯者」としての女性がいなければ成り立たなかったはずだ、みたいなことを考えつつ。

References
1 ふじさわ📚編集者さんはTwitterを使っています: 「美容院で「それ何読んでるんですか?」と聞かれて。「『妾と愛人のフェミニズム』。これによると、明治の成り上がりの男は、貧しかった昔のことを知ってる妻がそばにいると自分が弱くなった気がして、昔を知らない妾にハマるんです」と言ったら「ヤバい。鳥肌」と言って書影を撮ってた。通っちゃう… https://t.co/ubwlw9eJiN」 / Twitter https://twitter.com/FUJISAWA0417/status/1652277000999153664

WBC

野球は残念ながら、キックベース以外のプレイ経験はなくて、子供のころ、熱烈なカープファンだった父親がテレビ中継を見てる横で、(ふーん)(ほかに見たい番組あるんだけど)(まあ見てておもしろくないこともないけども)(っんだよ、また延長でこの後の番組みれないの)みたいに思いつつ眺めてたり、かつての後楽園球場に連れてかれて紙吹雪を撒かされてた程度。
夏休みはアニメ『タッチ』の再放送も見てたかな。

その後はじめて死ぬほど好きになってずっと好きだった人が強火のスワローズファンだったのは知ってたけど、そこまで熱心にプロ野球見続けるほどではなく。高校野球とか、たまに話題になる試合をチラ見してたくらい。

だが、さすがに今回のWBCは最初から最後までがっつり見てしまった。

「ぼくのかんがえたさいきょうのチームジャパン」でしょこれはちょっと見たいぞ→当たるチーム全部すごいしすごい紳士だしその人たちがみんなここまで真剣に楽しそうにプレーするんだすごい→しかし日本のこんな俺TUEEE快進撃続くはずない→立ちはだかる強豪チーム→ドラマ→ドラマに次ぐドラマ→まじかよすげーもん見せてもらってしまった

という感じの素人が、なんでここまで惹かれてしまったのかと振り返ると、「新時代来たな」というワクワク感に尽きる。
いまいち乗れなかった昔の(日本の)プロ野球の雰囲気や、ド根性上下関係のような苦手要素がなかった。
え、なんでなんで、と、つい気になって、吉井理人コーチの『最強のコーチは、教えない。』を買って読んでしまった。これはもっと早く読みたかった。

世の中があまりに世知辛くて(そうじゃなかった時代なんてないが)、PCから目を上げたときに見える範囲のことしか考えられなくなっていたときに、自分の夢と、自分につながる人たちの夢とを叶えていく生き方がほんとにあるんだ、みたいなところに、ふっと心が浮かんだような体験をさせてもらった。

これだけ子供が少なくなって、子供に向けられる目も冷たくなっている国で、子供たちに心を寄せる言葉が、選手たちから溢れるほど寄せられたことも嬉しかった。

自分でもびっくりするほど今回のWBCでは心を動かされたので、とりあえず走り書きで書き留めておく。

佐々木望『声優、東大に行く』

 言わずと知れた大人気声優の佐々木望さん。が、お仕事を続けながら東大に入学し、法学部を卒業されたという(しかも成績優秀者の表彰も受けて[1]東大Days公開記念! 佐々木望 Specialインタビュー第1回|佐々木望の東大Days〜声優・佐々木望が東京大学で学んだ日々〜)。
 その合格体験記なんて絶対気になるでしょ! 

 何はさておき多方面に溢れ出る好奇心と、それを追い続ける体力(知的体力も含めて)がすごい。それさえあれば、勉強術なんてどうとでもチューニングできるという、本当に典型的な東大生でいらっしゃった。
 
 受験のことだけでいえば、もともと英語がとてもよくできるから英語の勉強には時間をかけずに済み、数学もお好きだったらしい。これは強い。
 その他の科目は、過去問から逆算しつつ、教科書と参考書で基礎をしっかり学んでいき、予備校の短期講習も活用し、模試を受けまくって実戦演習を積む、という正攻法中の正攻法。なんだけど、わかっていてもこれを一人でやり遂げるのが難しいんだよなー。
 何をすべきで何をすべきでないかの判断や修正が客観的にできるのは、経験を積んだ社会人ならではの見通しがあってこそという面もあるだろうけど、とにかく学ぶことが好きで楽しくてしかたないから、勝手にどんどん学んでしまうというのが最強だと思った。

 「勉強スタイルは『自主・自由』」
 「いつも気持ちよく勉強できるように、適宜、自分を甘やかしてあげることが大切」
 などなど、ぶんぶんうなずきたくなるフレーズがたくさん。
 科目ごとの具体的な勉強法もおもしろいので、社会人学生や資格取得を目指す方はぜひ。

 とはいえ、本書の最大の魅力は、社会的には完成されている(と他人からはみなされる)大人が、なお新たな知識や経験を追い求めて自己の人格形成に挑む、そのプロセス自体を楽しむ、という佐々木さんご自身の姿だ。入学後の章「東大法学部で学んだこと 知識と経験が結晶化する」は必読。

渋谷らくご『柳家花ごめの怪噺 ~落語で聴く実話怪談~』

実話怪談は、実体験のレポートという体で、最近はネットを中心に語られてきた怪談だ。[1]『裏世界ピクニック ふたりの怪異探検ファイル』(宮澤伊織)
有名どころは「八尺様」とか「コトリバコ」あたりだが、それ以外にもネットには無数の実話怪談が溢れている。
これを落語で聞けるとか絶対楽しいに決まってる、と思って生配信で聞いた。
「最後は皆さんに暗ーい気持ちになって帰っていただきたい」で始まったとおり、特に何もカタルシスのないお話たっぷり。それが実話怪談の醍醐味なので楽しかった。

意外なことに、実話怪談を落語にするという試みはおそらくこれまでなかったそうだ(講談師の先生によるものはあったらしい)。
花ごめさんはもともと怪談大好きで得意な落語家さん。実話怪談は落語と親和性が高いのではないかと思って取り組んだら、思いのほか難しかったとのこと。
まずオチがない。それはそう。
それから、全編ナレーションで進むものを会話劇に仕立てるのがこれまた難しかったと、花ごめさんとゲストの梅木一仁さんが口を揃えておっしゃっていた。

それでも花ごめさん「獣の夢」は、みごとに落語だった。情景が鮮やかに目に浮かぶ。そこまで怖くはなくて、楽しかった。
続いてゲストの怪談師・ハニートラップの梅木一仁さん「死神に見える」。こちらも完全に落語になっていて、聞き入ってしまった。実在する(した)人物が登場するため、なかなかきわどい話ではある。なるほどそうやって倫理面をケアするのか、と思った。
最後に花ごめさんもう一席「ネックレス」。いやあ、人間こわい。

若手の芸人さんがいろいろ実験的な試みに挑戦するのを見るのは楽しい。渋谷らくご最高です。

References
1 『裏世界ピクニック ふたりの怪異探検ファイル』(宮澤伊織)

「中野正彦」問題

 年末年始に読みかけていた『中野正彦の昭和九十二年』(樋口毅宏)、ようやく読み終えた。
 読むのに正味かけた時間はそれほど長くはなかったと思うのだけど、読むのがつらくて細切れになってしまった。
 何か不快なものを目にしたときの常套句で「吐き気がする」というのがあるが、これは読みながらリアルに悪心をおぼえることが多かった。終板の「平成関東大震災」あたりは特に。

 もちろん、この作品が主人公の中野正彦の思想や言動を肯定的に描いているとは受け取れないし、ましてや「ネトウヨ」礼賛ではありえない。
 ただあまりに今のインターネットユーザの思考過程の描写がリアルすぎるので、中野正彦というキャラクターは、自分を中道と認識している多くの「普通の日本人」たちの共感をけっこう集めるのではないかと思った。したり顔の「バランス感覚」で共感を表明しそうな具体的な知り合いの名前もいくつか浮かんだくらいだ。
 何がリアルかというと、中野正彦はときどき正しいことも言うのである。解決すべき問題を見抜く目や嗅覚も確かだ。だが、その解釈や結果として起こす行動が決定的におかしい。
 同じ事実を見ているのに、どうしてここまで違う結論に至るのかと、もどかしく首をひねることは実際よく起こるが、その現象が実に精緻に再現されている。この作品でいちばん感心したのはこの点だ。
 
 中野正彦のパーソナリティの特徴として、自分が根本的に痛みやつらさを感じそうなことからは頑なに目を逸らすというものがある。それ以外の痛みやつらさは表明されるが、すぐに怒りに置き換えられる。彼の中に、そこを揺すぶったら彼全体が崩壊してしまいそうな巨大な情動の塊がありそうに見える。劣等感かもしれないし、純粋な高い理想かもしれないし、虐げられた悲しみかもしれないし、底知れないさびしさや満たされなさかもしれないし、ほかの何かを含めたそれらすべてかもしれない。その情動の塊を、自分にも他人にも触らせないように、怒りという繭でくるんだ身体で中野正彦はできている。
 繭の中身がおびやかされそうな事実は注意深く(無意識だとは思うが)排除して思考しているように見える。思想の左右を問わず、人間には普遍的なクセかもしれないとはいえ、その傾向がこれでもかというくらい顕著に描かれているのが中野正彦というキャラクターだ。

 読んでいてまったく心地よくはないし、誰かに積極的に読めと勧める気にもならないが、示唆されるところは多かった。
 本書が回収に至った経緯は複雑そうだが、表現手法のみを問題として市場に出してはならない本だとは思わない。しかし、もし回収されずに話題となり、多くの人が読むようになっていたら、今の日本のネット言論空間の傾向を見る限り、さらなる怒りや対立、それによって傷つく人たちを生んだだろう。そうなっていたら、出版社はどこまで対応できただろうか。
 
『中野正彦の昭和九十二年』回収について|イースト・プレス

『The Unkept Woman』(Allison Montclair)

 大人になってから友達を作るのは難しい、とはよく聞くが、大人の世界もわりと「友達」にあふれている。ママ友/パパ友/趣味友しかり、facebookしかり(それにしても「友達」「親しい友達」「知り合い」分類の身も蓋もなさよ)。
 定義にこだわらず、なにかしらの形式を満たす「友達」を作るだけなら、大人になってもそれほど難しくなさそうだ。でも、その関係をどう維持するか(しないか)、深めるか(深めないか)は、子供時代と同じくやっぱり難しい。

 『The Unkept Woman』(Allison Montclair)は、グウェン(貴族の未亡人)とアイリス(元?スパイ)のデコボコ美女コンビが繰り広げるミステリシリーズ第4作。邦訳が出ているのは第3作『疑惑の入会者』までだけど、待ちきれなくて読んだ。

 第二次世界大戦直後の荒れ果てたロンドンで、ひょんなことから意気投合し、結婚相談所の共同経営を始めたグウェンとアイリス。いまや読者には無二の親友としか見えない二人の間にも、本作ではついに気持ちの行き違いが起こる。
 迷いながらも手を伸ばすグウェンのひたむきさと、迷いとは無縁のようでいてすべての決断が危うさを秘めているアイリスの脆さと、どちらも美しくて目が離せない。
 本作で「friend(s)」という単語は45回出てきた。前作では6回だったから、やっぱり本作のテーマのひとつは「友達」なんじゃないだろうか。

 心の奥底を(たとえそこから注意深く選び抜いたことだけにせよ)打ち明け合うことができると、いかにも友情感は深まる。その関係をたとえば友達レベル1とすると、そこから互いに「今あなたが必要」と訴え、「わかった」と応じる関係に至るまでには、友達レベル50くらいのだいぶ大きな飛躍が必要だ。このへん、恋も友情もあまり変わりないかもしれない。
 グウェンとアイリスを取り巻く男性たちとの関係も、本作で大きく動いていく。アイリスについていえば、えっ、そっちはレベル1で、そっちがレベル50だったの、みたいな驚きがあった。

 タイトルは最後まで読むとなるほど感。邦訳はどうなるのかな。