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「月夜の夏目」と「星めぐりの歌」

 アニメ『夏目友人帳 漆』第8話は、「月夜の夏目」だった。主人公の夏目貴志と友人の西村悟の友情の機微を描く、原作でも大好きなエピソードだ。

 とあるきっかけから、夜ごと西村を訪れるようになる「夏目」が鼻唄を歌うシーンがある。原作では何の歌か明らかにされていないのだが、アニメでは、宮沢賢治の「星めぐりの歌」が当てられていた。BGMでも「星めぐりの歌」のバリエーションが終始優しく寄り添っていて、それがとても美しかった。

あかいめだまのさそり
ひろげた鷲のつばさ
あをいめだまの小いぬ
ひかりのへびのとぐろ
オリオンは高くうたひ
つゆとしもとをおとす

アンドロメダのくもは
さかなのくちのかたち
大ぐまのあしをきたに
五つのばしたところ
小熊のひたひのうへは
そらのめぐりのめあて

「星めぐりの歌」(『宮沢賢治全集 3』 ちくま文庫)

 この歌は本来、「ひろげた (お)鷲のつばさ」「ひかりの (お)へびのとぐろ」「さかなの (お)くちのかたち」のように、はっきりと「お」を入れて賢治さんは歌っていたのだと、昔、長岡輝子さんの朗読会で教わったことがある。長岡輝子さんは、賢治と同時代に同じ盛岡に暮らしていたことがあり、賢治作品の朗読を続けていた俳優である。
 そして、今回のアニメエピソードでも、「夏目」役の神谷浩史さんは、しっかり「お」を入れて歌っていらしたのだ。

 さりげない演出だが、それだけでも、夏目の姿を借りて、かりそめ西村の前に現れた妖に、かつてこの歌を「よく唄ってくれてた」「頭をなでてくれた」その人の姿が生き生きと浮かび上がってくる。妖がその人と会えなくなってから過ぎた年月と共に。

 ところで、『夏目友人帳』の別のエピソードで、はっきり「星めぐりの歌」が出てくるものがあったと記憶しているのだが、すぐに思い出せない。読み返して思い出したら追記しようと思う。

中国旅行記(杭州・上海)

 中国の杭州で開催されたAIPPI年次総会に行ってきました。

 会議やミーティングの内容については、業務上知り得たことなのでここには書きません。貴重な経験をたくさんさせていただいたので、パワーアップしたわたしと我が勤務先にお仕事いただければ、経験を生かしたお仕事ができると思います。

 ここでは、初めての中国訪問の感想など。

準備編
 金盾対策で、VPN対応のWiFiを日本で借りて持っていきました。現地空港で飛んでるWiFIを見る限り、周りの旅行客は、グローバルWiFiか「イモトのWiFi」(エクスコムグローバル)がほとんど。わたしは後者を借り、SNSもGoogleも、何の問題もなく使えました。自分のiPhoneとPCを朝から夜までつなぎっぱなしにしていても、WiFiの充電は半分以上残っていた感じで、モバイルバッテリーは使いませんでした。

 中国ではほぼ現金が使えず、オンライン決済(モバイル決済)の手段が必須とのことだったので、AlipayとWeChat Payのアプリを入れ、それぞれ違うクレジットカードを登録しておきました。

 今のところ、中国への渡航にはビザが必要です。ビザの申請についてはこちら→中国ビザ申請してみた – Going Pollyanna

初日~移動編~
 羽田から上海虹橋空港、地下鉄で高鉄駅(上海虹橋駅)、からの高速鉄道(高鉄)で杭州に行きました。

 
 地下鉄の切符を買うとき、さっそく噂のモバイル決済にトライ。タッチパネルの路線図で目的の駅を選び(漢字文化圏ありがたい)、切符の枚数を入力して、アプリで決済するだけ。ポトン、ポトン、と切符が落ちてきたときは、同行者と思わず歓声を上げてしまいました。

 高速鉄道はまるで新幹線で、とても快適でした。スナックと飲み物のサービスがあってびっくり。

初日~ホテル・会場到着編

 杭州、未来都市なんじゃが~?!

 走ってる車はぜんぶ電気自動車だし、未来感がすごい。
 2016年のG20杭州サミット開催を機に、急速に発展した地域とのことです。

 ホテルのスタッフは簡単な英語であれば対応してもらえましたが、少し難しくなると、音声入力の翻訳(通訳)アプリを活用されていました。AlipayやWeChatのアプリにも翻訳機能がついていて、使ってみようとわたしも試みたものの、音声翻訳は最後までうまくいかず。次に訪中するときまでになんとかしようと思います。

杭州滞在編
 とにかく会場が広かった……。

 部屋から部屋へ移動するだけですごい運動量。一日平均1万4千歩くらい歩いていました(自分のApple Watch調べ)。

 西湖の夜のショーも見せていただきました。G20開催の際、VIPの皆さんに披露されたのと同じショーだそうです。

 土地とマンパワーの圧倒的な豊かさが伝わってきました。マンパワー豊かすぎて、4羽の白鳥も5×4羽の白鳥に。
 おもてなしとは、国威発揚とはこういうことか、と唸りました。

上海お散歩編
 再び上海に戻った最終日前夜、少し時間があったので、歴史的な建物が立ち並ぶ延安中路あたりをお散歩しました。

 上海展覧中心

 静安寺

 上海蟹(よっぱらい蟹)

 ホテル

 ホテルの近くはフランス租界っぽさも残りつつ、少し歩くだけで、繁華街も楽しむことができました。もっとゆっくり来たい!

 

 

頼まれてもいないのにがんばること

ここ数週間のNHK朝ドラ『虎に翼』は、主人公・寅子にとって試練続きだった。

恩師である穂高先生との正面衝突と和解、恩師の死を乗り越え、仕事に邁進するも、後輩の女性修習生たちからは煙たがられ、離婚調停を担当した不倫妻からはカミソリを向けられる。そして、新潟への異動話をきっかけに、家族とも正面衝突を迫られる事態に。

寅子に向けられた厳しい言葉は数々あるが、聞いていてわたしが一番つらかったのは、猪爪・佐田家を共に支える義姉にして親友である花江ちゃんの「そこまでがんばってなんて頼んでない」だった。
寅子は女性法曹のパイオニアだが、誰も彼女にそうなれとは頼んでいないのである。誰にも頼まれないことをがんばり続けることの苦しさと意義に、ここまで正面から向き合ったドラマがあっただろうか。

少し振り返ってみる。
寅子が法曹を志したとき、母親のはるさんは、地獄を見る覚悟はあるかと問いただしていた。はるさんが言っていた「地獄」がどのようなものか、歩み始めたばかりの少女だった寅子に十分想像できていたはずもない。
寅子の家庭は裕福で、偏見もないから、学び続けること自体は「地獄」というほどではなかったはずだ。しかし、同窓の女性たちのさまざまな立場に触れるにつれ、寅子は少しずつ、自ら背負ったものの重さと意義に気づいていった。
だからこそ、妊娠を機に、敬愛する穂高先生の言葉に心を折られて歩みを止め、涕泣するしかなかったときの寅子の悔しさと不甲斐なさはどれほどのものだっただろうと思う。よねさんに責められるまでもなく、寅子自身が自分をいちばん責めていたはずだ。

敗戦、そして夫と父の死を経て、寅子は再び法曹の道に戻り、男性家長のいない家を懸命に支えている。何も法曹でなくてもよかったという意味では誰も「頼んでない」が、身につけた専門性を生かす意味でも、寅子が自分を取り戻すという意味でも、そして家族の中で誰がそれをできるかという意味でも、「これ以外ない」選択だっただろう。
実際に寅子はきちんと職責を果たし(その果たしている描写をもっと厚くしてほしかったと職業人としては思うが)、家裁メンバーに愛され、寅子に対して厳しかった桂場に「腹立たしいが君は有能だ!そして俺達に…好かれてしまっている!」と言わせるようにすらなった。
しかしその一方で、娘の優未ちゃんをはじめとした家族や、後進の女性たちにも「スンっ」を強いてしまうようにもなってしまった。その相克が爆発したのがこの数週間の『虎に翼』だった。

これほどつらいジレンマがあろうか。
ある。
寅子とは時代も立場も違っても、このつらさは今、自分が自分を保ちながら、家族と社会の最善を望んで生き、働き続ける道を模索するすべての人たちがもっているものだと思う。

わたしたちが生きる世界を変えてきたのはいつも、「頼まれてもいないのにがんばってきた」人たちだ。その孤独を理解し、そこに光を見いだすことができるのは、同じように望まれない道に踏み出し、傷つけ、傷つきながら歩みを止めないわたしたちだ。
それがわたしたちであると言えるように、そして傷つける人をもっとなくせる生き方を生み出せるように、わたしは生きていきたいと思った。

映画『関心領域』の “音”(ネタバレあり)

音の情報量の多さが印象的だった。

何の映像もない長いオープニングに流れる音楽。メインの弦がサイレンのような音をこれでもかと繰り返すのだが、ドップラー効果のようにだんだん低くなりながら、音の大きさは変わらない。遠ざかっているのは何で、遠ざけているのは誰なのか。不協和音のように聞こえるが、しっかりとした美しい和音が際立つ。
対照的に、エンディングに流れる音楽では、無数の叫び声が次第に力を増していく。それこそ耳を塞ぎたくなるほどに。

本編では、常にいろいろな音が後ろに聞こえてくる。汽車が走る音(お察しのとおり、囚人を運んでくる汽車であることが後で示される)、乾いた銃声、ドイツ人ともユダヤ人ともわからない叫び声、あからさまに囚人を虐げる怒声、それに対して囚人が上げる声、そしてヘス一家の末娘である赤ん坊の泣き声。
ここを「最高の環境」と言うヘス夫妻にはこれらの音が一切聞こえないのか、と見ている我々は思わざるを得ない。実際、引っ越してきた彼らの老母は耐えかねたのか、すぐにその家を去った。

我々は、と書いたが、視聴者の中にも聞き流した人は大勢いるだろうと思う。
ろう者向けにはどういう字幕になるのだろう。

映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(ネタバレあり)

ようやく見てきた。

子供のころから妖怪も鬼太郎も大好きで、小学館の妖怪シリーズ(鬼太郎大百科とか妖怪大図解とかのアレ)を読み込み、アニメ鬼太郎(3期)も夢中で見て、夏休みのプールには下駄履きで通い、長じてからは水木しげる漫画大全集ももちろん買ったくらいのファンにもかかわらず、ずいぶん遅くなってしまった。

鬼太郎・目玉のおやじ・猫娘・ねずみ男たちがアニメ6期と同じキャラクターというだけでなく、人間批判を強めた物語の精神がアニメ6期としっかりつながっている。しかしここまでつらい話になっているとは思わなかった。
わたしより先にお友達と見ていた子供に「こんなにつらいなんて、先に言ってよ~」と訴えたら、「そうでしょうそうでしょう、つらかったねえ」と慰められたのだが、同じ思いを母にも味合わせて、じゃなくて共有できたという、してやったりのニヤニヤ顔がなんとも。

以下ネタバレ。

個人的にいちばん熱かったのは、霊毛ちゃんちゃんこ爆誕のシーン。
あのちゃんちゃんこがご先祖様の霊毛でできているというのはみんな知っていることだが、いつ、誰が、どのようにして作ったのか、という詳細は今まで明かされていなかったと思う。
それが本作で明かされた。そしてこれが「ゲゲゲの謎」につながるのだ。

幽霊族たちは、人間の欲に虐げられ、搾取され続けて、もはやまともに生き残っているのは鬼太郎の父(ゲゲ郎)のみ。かろうじて生き残っている鬼太郎の母を助けようと、ゲゲ郎は怨念渦巻く敵の本丸に、相棒・水木と共に乗り込む。絶体絶命のピンチのそのとき、母の胎内で鬼太郎が泣き声を上げるのだ。
その声に呼応して、もはや屍と成り果てていた無数の幽霊族たちが思いを込めた霊毛を放ち、編み上げられたちゃんちゃんこがゲゲ郎を守る。鬼太郎に受け継がれたちゃんちゃんこはこうして生まれたのだ!

なぜ鬼太郎一族に幽霊族たちの思いが託され、彼らがヒーローになったのか。まさしくゲゲゲの謎そのものではないか。

それにしても、横溝正史や江戸川乱歩はもちろん、最近であれば『マイホームヒーロー』など、隔絶されたいわゆる「因習村」を舞台にした作品は数多くあるが、本作ほど救いのないものも珍しい。
時弥くんは最後に少し浮かばれたようだったが、沙代ちゃんは……。あれだけの人を殺した報いといえばそれまでだが、あまりにもつらい最期だった。

以下小ネタ感想。

・本作の水木には腕がある。腕がある水木サン自体は、水木しげるの心象風景として、たとえばコミック『昭和史』などにもときどき登場するから、本作の水木もまた、水木しげるの心象風景という設定なのだろう。しばしば登場する戦争中のエピソードは、水木しげるが繰り返し語ったものとほぼ同じだ。

・水木が、子守のばあさんに妖怪の話をよく聞いていたと語るシーンもあった。のんのんばあという名前こそ出なくても、観客の多くが彼女の顔を思い浮かべただろう。
 ゲゲ郎と水木が墓場で酒を酌み交わしているとき、ふわふわと青い炎の妖怪が彼らのもとに降りてきた。あっ、つるべ火、と思ったとき、水木も「つるべ火……」とつぶやいた。水木はちゃんと「知っている」のである。ここでも少し胸が熱くなった。

・水木とゲゲ郎が出会った当初、水木がゲゲ郎との約束を破ったシーンがあった。人間にだまされたことを知ったゲゲ郎の怒り方が鬼太郎のそれとそっくりで、これは「幽霊電車」か「地獄流し」の刑まったなしなのでは、とヒヤヒヤしながら見ていたが、結局ゲゲ郎は、自分の身代わりに水木を座敷牢に押し込むくらいで済ませてやっていた。やさしい。

・鬼太郎といえば体内電気である。体内で電気を発生させ、それを敵に流して倒すのだ。
 ゲゲ郎が最初に狂骨に飲み込まれたときはなすすべもなく力を奪われてしまい、あれっゲゲ郎は体内電気使えないのかな、と思ったのだが、次に飲み込まれたとき、ゲゲ郎は自らの胸に手を当てて電気を発生させて逃れた。
 鬼太郎の解剖図によれば、鬼太郎の体内にある「発電袋」という器官が体内電気の源なので、父であるゲゲ郎の体内にも同じものがあったのだろう。ゲゲ郎はそれを自分で覚醒させたのだろうか。

・エンディングテーマは、『カランコロンの歌』がモチーフだった。大好きな歌だ。ご存じない方はググってみてください。

・声優さんたち最高でした。関俊彦さんが、少し声を高めに演じていらしたのも、いずれ目玉になる感じがしてよかった。そしてとにかくかっこよかった。さらに、鬼太郎と鬼太郎の母の両方を演じた沢城みゆきさんが素敵でした。

『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ – 性と身体をめぐるクィアな対話 – 』(森山至貴 / 能町みね子)

読んだ。

ちょっと前に『トランスジェンダー入門』を読んだときには、自分がいかに何もわかっていなかったか/わかった気になっていたかと、”蒙を啓かれる” 思いでありがたかったものの、そうやってまたしても啓蒙された気になってしまう自分自身への警戒心に加えて、実はところどころしっくりこなかった部分もあった。

『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ』は、そのしっくりこなかった部分も含めてさまざまな「しっくりこない」エピソードがふんだんに語られていて、しかもわかりやすい解決っぽいものの道筋も示されていないにもかかわらず、ものすごくいろんなことが “腑に落ちた” と思う。

自分とは異なる部分が多い性について知りたいと思いながら手に取った本なのに、なぜかセクシュアリティーだけじゃなくて自分が普段抱えているいろんな「しっくりこなさ」を鮮やかに切り出してもらえたという不思議な経験をしてしまった。

人が変わっていくとか揺らぐことをきちんと考えよう、というのがとても重要

私たちは、話が単純な公式にされそうになるといちいちぶった切って、「そんなにシンプルじゃない、こんな例もあるんだよ」という混ぜっ返しをずっとしていると思います(笑)

「ままならなきものを、ままならなきままに生きる自由」

そしてもちろん反抗心。

『卒業生には向かない真実』(ホリー・ジャクソン)

 読み終えて呆然としてる。一作目の『自由研究には向かない殺人』のときは、のんきに「爽やか青春ミステリ」などと言っていたけど、トリロジー完結編の本作でここまで来るとは思わなかった。

 最初の「犯人」の見当がつくのにそう時間はかからなかった(4割くらい読んだあたりだったかな)ものの、その後がとんでもなかった。
 主人公に対する読者の愛と信頼が終始試されるから感情がぶんぶん振り回されるし、一方でトリックの穴にも目を光らせないといけないから頭も使いっぱなし。これから取りかかる人は、すごくハードなスポーツに取り組むときのような覚悟を決めた方がいいかもしれない。

読み終わった

『妾と愛人のフェミニズム 近・現代の一夫一婦の裏面史』

 最初の方を読みながら、「結局のところ、誰の子を誰の子より優遇するか、そのことをどう正当化するか、という思想なんじゃないか」とおととい書いたが、それは大間違いで、この本の主眼はそこにはなかった。「家」や「家父長制」にすらない。
 むしろ、夫・妻・妾/愛人たち、それぞれの意識、立場、世間的なイメージの変遷を個別に解きほぐしていくことで、(日本の)一夫一婦の奇妙ななりたちを描き出しているのがおもしろいところだ。

 おそらく本書のキモはここ。

「夫の生産労働を支えていたのは、家にいる妻の再生産労働だけではなかったということに私たちは気づくべきなのである。……(中略)……フェミニズムは、妻の再生産労働の経済的価値が無視され、無償労働として不当に評価されていることを問題視してきたが、愛人の立場からみれば、そもそも夫と妻の二大労働が一つの組になり資本主義社会を支えているという認識自体に疑問符をつけなければならない。婚姻関係の外部に存在する愛人が、実は既婚男性の仕事を支えるパートナーとして、妻とは別のところから彼らを支えていたという見方が浮上する。すなわち、私たちの認識から外されていたこと、見えていなかったこととして、経済的に自立が可能な家の外の愛人によって、もう一つの労働がおこなわれていた事実をここでしっかり踏まえておきたい。」 

 そうは明言されていないものの、男性中心の旧来のお仕事の世界では、「愛人」の概念は、特に性愛のつながりのない同僚・上司・得意先/下請先にまで広げられる業界もあるかもしれない。

 しかし、先の引用は特に戦後の愛人をめぐる記述だが、この状況下では、妻という立場には何のメリットもないな、というのが率直な感想だ。
 夫は、家の内と外で異なる女性に支えられつつ、金を稼ぎ、情緒面でも満たされた生活を送ることができる。愛人は「糠味噌臭い妻の立場」に立つことなく「おいしい生活」を満喫することができる。ここまでは本書でも述べられている。
 えっ、じゃあ妻は? 
 経済力がない妻であれば、夫に養ってもらうというメリットはあるだろう。本書でも、戦前の話として、妻は愛人の存在を契機に婚姻関係を維持・発展させる傾向があったこと、円地文子の小説『女坂』のように、妻が妾の生を簒奪しながら一家の支配人としての地位を確立していくありさまなどが紹介されている。
 だが、現代の経済力ある女性はどうだ。愛人ではなく、わざわざ婚姻することで得られるメリットはあるだろうか。この点について、本書は特に踏み込んでいない。が、いまや、経済力ある女性には、妻として一夫一婦を維持する積極的な動機はもはやなさそうだと読み取ることは、たぶん容易だ。

 最初に述べたとおり、本書では、「家」や「(子供のいる)家庭」についてはほとんど語られていないので、ここから先はわたしがあれこれ考えたことになる。
 素人ながら推測すると、現代において婚姻関係に入る動機としては、ロマンチックラブイデオロギーにふんわり影響されつつ、パートナーと家族を作りたいというのが最大だろうとは思う。
 とにかく子供のいる家が必要だから結婚しようと思うカップルはいまどき少ないかもしれないが、婚外子への風当たりがまだまだ強い日本では、いずれは子供を、と思うのなら、結婚した方が社会的に楽そうではある。そもそも子育てには人手と人の愛が必要だから、一つ家の中で子供に関わる大人は多い方がいい。その大人が、気心の知れたパートナーであればもっといい。
 それでも、母親から見てその大人が「夫」でなければならないものかどうかは、ちょっと考えてみてもいいのかもしれない。その夫が、女性なり仕事なりその両方なりを「愛人」として家の外に持ち、家事育児に関わらないのであればなおさら、母親だけが「夫の妻」でいなければいけない理由はなさそうだ。

 たいそうやばい不穏なことまで考えてしまったが、べ、べつにわたしが今すぐ「妻」をやめて今の家族を解体しようなんて考えてるわけじゃないからね……。でも、著者の石島亜由美さんには、今回の「一夫一婦の裏面史」を踏まえて、さらにそのあたりの不穏なところに踏み込んだ論考を提供してもらえればエキサイティングだろうなと期待している。

 一夫一婦が解体されることがあるなら、それは妻側からかもしれない。

読んでる途中

『妾と愛人のフェミニズム 近・現代の一夫一婦の裏面史』

Twitterで流れてきて気になって読み始めた[1]ふじさわ📚編集者さんはTwitterを使っています: … Continue reading

“筆者がフェミニズムに接近した理由の一つに、「男性の視線のなかで女性が女性を価値づけること」の暴力性を感じる経験があったことを挙げる。それは、男性から差別(暴力)を受ける女性という男/女の非対称の関係性、<男から女>という直線的な暴力性ではなく、その差別や暴力にほかの女性が加担しているということ、男性の視線を内面化した女性が別の女性を価値づけることの暴力性というものである”

と冒頭ではっきりと述べられている「研究の動機」が、わたしにとって、ああ、そう、それ! と思えるものだったこともあって、おもしろく読んでいる。

まだぜんぜん最初の方だけど、今に至る、そしてあまねく浸透しているこの暴力的な差別の根底にあるのは、結局のところ、誰の子を誰の子より優遇するか、そのことをどう正当化するか、という思想なんじゃないか。男尊女卑は、その思想を支持するのに便利な理論かもしれないが、そこに「共犯者」としての女性がいなければ成り立たなかったはずだ、みたいなことを考えつつ。

References
1 ふじさわ📚編集者さんはTwitterを使っています: 「美容院で「それ何読んでるんですか?」と聞かれて。「『妾と愛人のフェミニズム』。これによると、明治の成り上がりの男は、貧しかった昔のことを知ってる妻がそばにいると自分が弱くなった気がして、昔を知らない妾にハマるんです」と言ったら「ヤバい。鳥肌」と言って書影を撮ってた。通っちゃう… https://t.co/ubwlw9eJiN」 / Twitter https://twitter.com/FUJISAWA0417/status/1652277000999153664

WBC

野球は残念ながら、キックベース以外のプレイ経験はなくて、子供のころ、熱烈なカープファンだった父親がテレビ中継を見てる横で、(ふーん)(ほかに見たい番組あるんだけど)(まあ見てておもしろくないこともないけども)(っんだよ、また延長でこの後の番組みれないの)みたいに思いつつ眺めてたり、かつての後楽園球場に連れてかれて紙吹雪を撒かされてた程度。
夏休みはアニメ『タッチ』の再放送も見てたかな。

その後はじめて死ぬほど好きになってずっと好きだった人が強火のスワローズファンだったのは知ってたけど、そこまで熱心にプロ野球見続けるほどではなく。高校野球とか、たまに話題になる試合をチラ見してたくらい。

だが、さすがに今回のWBCは最初から最後までがっつり見てしまった。

「ぼくのかんがえたさいきょうのチームジャパン」でしょこれはちょっと見たいぞ→当たるチーム全部すごいしすごい紳士だしその人たちがみんなここまで真剣に楽しそうにプレーするんだすごい→しかし日本のこんな俺TUEEE快進撃続くはずない→立ちはだかる強豪チーム→ドラマ→ドラマに次ぐドラマ→まじかよすげーもん見せてもらってしまった

という感じの素人が、なんでここまで惹かれてしまったのかと振り返ると、「新時代来たな」というワクワク感に尽きる。
いまいち乗れなかった昔の(日本の)プロ野球の雰囲気や、ド根性上下関係のような苦手要素がなかった。
え、なんでなんで、と、つい気になって、吉井理人コーチの『最強のコーチは、教えない。』を買って読んでしまった。これはもっと早く読みたかった。

世の中があまりに世知辛くて(そうじゃなかった時代なんてないが)、PCから目を上げたときに見える範囲のことしか考えられなくなっていたときに、自分の夢と、自分につながる人たちの夢とを叶えていく生き方がほんとにあるんだ、みたいなところに、ふっと心が浮かんだような体験をさせてもらった。

これだけ子供が少なくなって、子供に向けられる目も冷たくなっている国で、子供たちに心を寄せる言葉が、選手たちから溢れるほど寄せられたことも嬉しかった。

自分でもびっくりするほど今回のWBCでは心を動かされたので、とりあえず走り書きで書き留めておく。