2025年8月11日

  • 田端文士村記念館に行ってきた

     芥川龍之介の自筆詩集が最近見つかったという。

    芥川龍之介の「幻の詩集」発見 自作12編書き記した冊子 – 日本経済新聞

     これが一般公開されている企画展「龍之介・犀星のもとに集った詩人 ~「詩のみやこ」から100年~ 」を目当てに、田端文士村記念館に行ってきた(2025年7月5日)。

     JR田端駅北口を出て、左手の方にすぐ見える。

     なお、館内は写真撮影禁止なので、これから訪れる方は、手帳やメモ帳をもっていくことをおすすめする。

     昔、田端に多くの文士や芸術家が住んでいたことは知っていたが、これほどまでとは、と、常設展の年表を見て圧倒された。東京美術学校(今の東京芸術大学)や東京帝国大学(今の東大)が近いのはダテではない。

     最初は彫刻家や画家などの芸術家が田端に住んでいて、「ポプラア倶楽部」という親睦機関ができていたらしい。

    企画展第1章
    田端に集う文士たち―そして「詩のみやこ」へ

     文士が集まり始めたのは、やはり芥川の転入(大正3年)がきっかけだった。帝大の学生だった芥川は、「芸術が紺絣を着てあるいてゐるやうな気がする」と松岡譲への手紙で報告している。

     その後、大正6年に金沢から室生犀星が金沢から上京。田端に住み始めて、やがて芥川との交流が始まる。

    企画展第2章
    口語自由詩の夜明け―『感情』と二人の詩人―

     皆さんご存じのとおり、犀星には以前から、萩原朔太郎という盟友がいて、大正5年には二人で詩誌『感情』を創刊していた。
     この『感情』について、芥川が松岡譲に書いた手紙(大正6年7月12日)が展示されていた。

    この頃、萩原朔太郎氏の「感情」を見てゐると大にあ々云ふ小雑誌が羨しくなったよ

     朔太郎への犀星の友情は、大正7年に自費出版した『愛の詩集』の「萩原に与へたる詩」が有名だ。これも展示されている。

    君だけは知つてくれる
    ほんとの私の愛と芸術を
    求めて得られないシンセリテイを知つてくれる
    君のいふやうに二魂一体だ
    ・・・
    充ち溢れた
    なにもかも知りつくした友情
    洗ひざらして磨き上げられた僕等

    企画展第3章-1
    詩人としての龍之介―犀星・朔太郎との共鳴―

     犀星に『愛の詩集』を献本されて感動した芥川は、「愛の詩集に」を犀星に献詩している(草稿の展示あり)。朔太郎は『感情』に「『愛の詩集』に就て」を掲載。

     なかよし! でもなんかこう、相関図の矢印の向きと濃淡が気になる! その後の展示もどうしてもそういう目で見てしまう。

     大正14年、朔太郎は犀星宛ての手紙で「出来る限り、君のご近所に住みたい」と言って、田端に引っ越してきた。もちろん、君=犀星である。

     朔太郎の田端転入を喜んだ芥川は、犀星に「是非あひたい(略)僕の小説を萩原君にも読んで貰らひ、出来るだけ啓発をうけたい」と、朔太郎への熱烈な思いを語っている。その思いは萩原君に直接言うといいのでは、とうずうずする。

     ちなみに、朔太郎側から見るとこうだ。

    「『君と僕とは、文壇でいちばんよく似た二人の詩人だ。』と、芥川君は常に語つた」
    (萩原朔太郎「芥川君との交際について」)

    その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。
    「室生君と僕との關係より、萩原君と僕との友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」
     この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向つて次のやうな皮肉を言つた。
    「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」
     その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。
    (萩原朔太郎「芥川龍之介の死」)

     気になる矢印の向きと濃淡は置いておいて、やはり芥川にとっては、詩人としてのアイデンティティが大切だったのだろう。

     最近発見された「芥川龍之介 自筆詩集」はこの展示で見ることができる。
     製本見本と考えられるらしい冊子で、表紙は薄茶色、罫線も何もない真っ白な紙に、1頁に1つの詩が書かれ、詩の最後に表題が書かれている。
     詩集発行を見据えていたのではないかと考察されていて、もっとたくさん数があったら書籍になっていたのかもしれないなと夢想した。

     後年、犀星は「芥川龍之介と詩」(昭和9年)の中でこんなことを言っている(展示あり)。

    元來芥川君は小説家であるよりも、詩人風な人がらであり、好んで詩人たることを喜んでゐた人かも知れなかつた。詩人的であることは小説家であるよりも私なぞには親しいのである。

     とにもかくにも、朔太郎を迎えて田端はにぎやかになった。

    この頃田端に萩原朔太郎来り、田端大いに詩的なり
    (大正14年、芥川から佐藤春夫宛書簡)

     室生犀星 これは何度も書いたことあれば、今さら言を加えへずともよし。只僕を僕とも思はずして、「ほら、芥川龍之介、もう好い加減に猿股をはきかへなさい」とか、「そのステッキはよしなさい」とか、入らざる世話を焼く男は余り外にはあらざらん乎。
    (大正14年、芥川龍之介「田端人―わが交遊録―」

     イチャイチャたのしそうですね。そして芥川はどれだけ猿股をはき続けていたのか。

    企画展第3章-2
    師としての龍之介 ―堀辰雄の文学的出発点―

     「辰っちゃんこ」登場回である。

     堀辰雄は学生時代に何度か田端で下宿していて、芥川は自分と共通点の多い堀を「辰っちゃんこ」と呼んでかわいがっていた。

    堀辰雄君も僕よりは年少である。が、堀君の作品も凡庸ではない。東京人、坊ちやん、詩人、本好き――それ等の点も僕と共通してゐる。しかし僕のやうに旧時代ではない。僕は「新感覚」に恵まれた諸家の作品を読んでゐる。けれども堀君はかう云ふ諸家に少しも遜色のある作家ではない。
    (昭和2年、芥川龍之介「僕の友だち二三人」)

     ここでも「詩人」であることが、芥川と堀をつないでいる。

     堀辰雄の大きな業績のひとつに、『驢馬』創刊がある。

    企画展第4章
    詩誌『驢馬』創刊 ―「詩のみやこ」となった田端―

     犀星を中心に集まっていた「驢馬の会」の青年たち、中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄、西沢隆二、宮木喜久雄、平木二六らが中心となって、大正15年に『驢馬』を創刊した。発行所は田端にあった窪川の下宿である。

     佐多稲子など、綺羅星のごとき才能が『驢馬』にあつまり、次々と新しい文学が生み出されていった。

     それは昭和2年に芥川がこの世を去ってからも続き、やがてプロレタリア文学運動ともつながっていく。

     『驢馬』はまさに「詩のみやこ」である田端が生んだ結晶のような雑誌と言えます。
    (展示壁面解説)

     芥川、朔太郎、犀星の中でもっとも長生きした犀星は、後年になってからも、誠実で愛に溢れた言葉でかつての友人たちを偲んでいる。

    私自身の中の萩原よりも、読まれてゐる世界の萩原が、彼の生前よりももつと親しく威張て私を呼びつゞけるのである。
    (室生犀星「えらさといふこと」)

     ほかにも『黒髪の書』は、老いてなお友を慕う犀星の心に目頭が熱くなる。

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