書くことはたぶんなくならない

書くことがなくなった – phaの日記
もし書くことがなくなったら、俺らは一体なんなんだ – シロクマの屑籠

 「年をとったせいか、知らん人に別にそんなにちやほやされたくないなー、という気分になってきた」というphaさんの気持ちはとてもよくわかる。
 「昔と同じようにブログを書けないだけでなく、同じことをブログに書いたとしても、周囲に同じようには受け取ってもらえない」というシロクマ先生の気持ちもわかる。

 とてもよくわかった上で、お二人の喪失感というか危機感というかさびしさのようなものは、まだわたしには訪れていないな、と思う。
 わたしが書くことはたぶんなくならない。これからも。

 知らない人にちやほやされるのもめんどうだししんどいし、知らない人から執拗に粘着されてネガコメをぶつけられるのはもっとめんどうでしんどい。
でもそれは、ネットの海に、愚にもつかないわたしの言葉を放り投げることをやめる理由にはならない。

 Twitterの鍵をかけたり開けたりして、フォロワーが増えすぎないように調節し、
 はてなブックマークに鍵をかけ、
 はてなブログからこのブログに軸足を移し、

 ようやく、わたしは20年くらい前の勢いで書きたいことをどんどん書けるようになってきた気がする。

 昔のようにブログが書けなくなってきたという思いは、しばらく前のわたしにもあったけど、わたしの場合それは、手が届かないくらい広い範囲の他人の反応が、リアルタイムで目に飛び込んでくることに耐える体力がなくなってきただけだ。
 まんざら知らない仲でもない人の反応ですら、ときにつきあうのがしんどいのだ。

 たとえば、SNSでわたしが何かつぶやいたとき、それに触発されて思いついたことを直接リプライで縷縷語ってくださったりするのは、ありがたいことではあるけれども、丁寧に返信する気力のないときには、申し訳ないけれども重荷に思えてしまう。ご自分のタイムラインで独立につぶやいてほしいな、と思ってしまったりする。
 無言のいいねやエアリプ軽口の応酬くらいが気楽なのだが、それはわたしがコントロールできることでも、コントロールすべきことでもないので、やはりSNSからは遠ざかってしまう。

 言いたいことを言いっぱなしにしたいだけだろうと言われれば、そのとおりですと頭を垂れるしかない。それでも言いたいことを言いっぱなしにする場所を、ネットの海のどこかに確保しておきたいし、確保できる限りは、わたしは書くことをやめないだろう。
 生きている限り、書くことが尽きることはないはずだから。書けなくなっても、書きたいことが尽きることはないはずだから。