月別アーカイブ: 2023年1月

もしFediverseがSNSの主流になったら

 どうなるのだろう、みたいなことをぼんやり考えている。

 きっかけは昨日、Twitterで、イベルメクチンを手製の黒糖溶液で培養したと報告するツイートが炎上していたことだ。
 
 イベルメクチンは、ある種の放線菌がつくるアベルメクチンという化合物を化学修飾してできたもの。
 だから、イベルメクチンを手に入れるためには、自然界に無数に存在するさまざまな放線菌の中から、アベルメクチンをつくれる特殊な放線菌を探し出して、その放線菌だけが増えられる条件で大量に培養し、アベルメクチンを取り出した上で、化学修飾してイベルメクチンにしないといけない。
 
 ところが、問題のツイートでは、放線菌が含まれていないイベルメクチンの錠剤を少量の黒糖溶液に放り込んで培養し、増えてきた何かをイベルメクチンだと主張している。

 もちろんそんなことが可能なはずはないので、それなりに知識のある人たちが、いっせいにそのツイート主を嘲笑したり批判したりしている、というのが今回の炎上だ。
 しかし、例のごとく嘲笑は反発を呼び、真摯な忠告(あったとすれば)は、ツイート主やその支持者たちに届いた気配がない。

 イベルメクチンは極めて優れた抗寄生虫薬だが、少なくともCOVID-19の治療薬とはなりえないことが既に証明されている[1] … Continue reading。にもかかわらず、COVID-19への効能に、根強い期待を抱き続ける人たちが減っているようには見えない。いつのまにか万能薬のような扱いすら受けているようだ。

 なぜこのようなイベルメクチンへの過剰な期待が生まれてしまったのかについては、科学社会学の視点に基づく詳細な分析を待ちたい。
 わたしが気になるのは、「イベルメクチンの培養」のように荒唐無稽で非科学的で、かつ公衆衛生に関する社会的合意形成に悪影響を与えかねない情報の拡散が、今後のSNSではどうなっていくのだろうということだ。

 今は、TwitterやFacebookといった巨大な独立系SNSに人が集まっているから、あまりに荒唐無稽な情報が発信されると、同じSNS内ですぐさま晒し上げられて批判を受ける。発信者とその支持者が批判を受け入れる可能性は低いだろうが、誤った情報を信じかけていた傍観者の中には、批判の嵐を見て、さすがにヤバそうだと気づく人もいるかもしれない。
 しかし、SNSの断片化が今後進んでいったとしたらどうだろうか。
 巨大な独立系SNSで晒されては嘲笑され、叩かれることが嫌になった人たちが、マストドンなどのFediverseサーバを自ら作り、認識と価値観を共有できる人たちとそこに集まり始めるかもしれない。
 Fediverseサーバは、気に入らない別のサーバをブロックすることができる。不快な横槍をシャットアウトした安全なバブルの中で、ひたすら誤った認識と情報を培養し続ける、といった状況になる可能性はありそうだ。
 
 誤った(あるいは著しく偏った)認識と情報を培養し続けているサーバは、その規模が小さくて、その中で閉じているうちは、社会の大勢に大きな影響を与えることはまずないだろう。
 しかし、規模が大きくなっていったとしたら、そうも言っていられなくなるのではないか。
 ただでさえ、歴史や科学の認識に不安のある今の政治家たちが、声の大きさを理由に、そういったサーバの声を取り上げ始めるかもしれない。実際、一時COVID-19治療薬の候補となったアビガンについては、多くの疑問の声があったにもかかわらず、安倍元首相が前のめりに承認プロセスと確保を進め、結局は開発中止に至った[2]174億円分のアビガン コロナ有効性立証できなくても備蓄継続?
 誤った歴史認識に基づいていたり、科学を無視した政策決定に対する批判の声は、今でさえ通りづらい。にもかかわらず、批判の声が種々の小さなサーバに分散し、批判の対象としたい本丸のサーバからはシャットアウトされていくとしたらどうなるだろう。

 巨大な独立系SNSが覇権を握っている今であれば、ひとつのSNSの中で検索すれば、賛成意見も反対意見も、いちおうは並べて見ることができる。
 もし、こういった独立系SNSが力を失い、あるいは崩壊して、互いにシャットアウトし合ったFediverseサーバが乱立するような未来が来たら……?
 最も悲観的な見方をするなら、異なる認識や価値観のすり合わせや対話が、今以上に難しくなるかもしれない。

 わたしはFediverseが切り開く未来に大いに期待はしているけれど、それはそれとして、さまざまなバックグラウンドをもつ人たちがひとつに集まる場所として、巨大な独立系SNSはまだ存在していてほしいと思う。

 だからこそ、イーロン・マスクやマーク・ザッカーバーグには、できるかぎり公平で自由な公共言論空間の運営を期待したいところなのだが。

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一週間乗り切った

 昨年来の疲れが出たのか、木曜日、だいぶ久しぶりにメニエールのめまい発作を起こしてしまった。
 内耳が水ぶくれを起こすのがメニエールの本態で、あまりに水ぶくれが過ぎて内耳が破れてリンパ液が中耳に漏れると、浸透圧の違うリンパ液が混ざって蝸牛がイカれ、めまい等が起こるしくみ、らしい。
 発作を起こしてしまうと、ただでさえダメージを受けてて再生もできないポンコツ有毛細胞がまたさらにやられてしまうので、極力発作は起こさないように、ヤバそうなときは薬(組織中の水分をガンガン血液に取り込んで排泄するやつ。不味いので有名。慣れるけど)をこまめに飲んで予防しないといけない。わりと長いことうまくコントロールできていたのだが、今回は油断してしまった。反省。

 専門業務型裁量労働制がオフィシャルに適用されるようになったため、今週は、午前出勤・午後在宅というパターンを2回試してみた。これが意外といい感じ。
 とっとと出勤して、めんどくさいけどそこそこ機械的にできる仕事を片づけつつ、出社してるメンバーとコミュニケーションとって気分を上げて、空いてる電車で家に帰って集中してやりたい仕事に取りかかり、必要ならそのまま帰宅時間を気にせず残業ができる。
 しばらくこれでやってこうかな。

 付記試験の合格証書が届いたので、今日、付記申請書を提出してきた(郵送)。登録されたら、名刺も差し替えかしら? かしら? (にこにこ)

ActivityPubアカウントのアイコン表示されない問題

解決したような気がする。

何がどうなのかわからないけど、いったんActivityPub(とついでにFriends)プラグインを停止し、JetPackプラグインを停止して、もう一度ActivityPub→Friends→JetPackの順で有効化してみた。

参考:Author page json not in expected place | WordPress.org

「中野正彦」問題

 年末年始に読みかけていた『中野正彦の昭和九十二年』(樋口毅宏)、ようやく読み終えた。
 読むのに正味かけた時間はそれほど長くはなかったと思うのだけど、読むのがつらくて細切れになってしまった。
 何か不快なものを目にしたときの常套句で「吐き気がする」というのがあるが、これは読みながらリアルに悪心をおぼえることが多かった。終板の「平成関東大震災」あたりは特に。

 もちろん、この作品が主人公の中野正彦の思想や言動を肯定的に描いているとは受け取れないし、ましてや「ネトウヨ」礼賛ではありえない。
 ただあまりに今のインターネットユーザの思考過程の描写がリアルすぎるので、中野正彦というキャラクターは、自分を中道と認識している多くの「普通の日本人」たちの共感をけっこう集めるのではないかと思った。したり顔の「バランス感覚」で共感を表明しそうな具体的な知り合いの名前もいくつか浮かんだくらいだ。
 何がリアルかというと、中野正彦はときどき正しいことも言うのである。解決すべき問題を見抜く目や嗅覚も確かだ。だが、その解釈や結果として起こす行動が決定的におかしい。
 同じ事実を見ているのに、どうしてここまで違う結論に至るのかと、もどかしく首をひねることは実際よく起こるが、その現象が実に精緻に再現されている。この作品でいちばん感心したのはこの点だ。
 
 中野正彦のパーソナリティの特徴として、自分が根本的に痛みやつらさを感じそうなことからは頑なに目を逸らすというものがある。それ以外の痛みやつらさは表明されるが、すぐに怒りに置き換えられる。彼の中に、そこを揺すぶったら彼全体が崩壊してしまいそうな巨大な情動の塊がありそうに見える。劣等感かもしれないし、純粋な高い理想かもしれないし、虐げられた悲しみかもしれないし、底知れないさびしさや満たされなさかもしれないし、ほかの何かを含めたそれらすべてかもしれない。その情動の塊を、自分にも他人にも触らせないように、怒りという繭でくるんだ身体で中野正彦はできている。
 繭の中身がおびやかされそうな事実は注意深く(無意識だとは思うが)排除して思考しているように見える。思想の左右を問わず、人間には普遍的なクセかもしれないとはいえ、その傾向がこれでもかというくらい顕著に描かれているのが中野正彦というキャラクターだ。

 読んでいてまったく心地よくはないし、誰かに積極的に読めと勧める気にもならないが、示唆されるところは多かった。
 本書が回収に至った経緯は複雑そうだが、表現手法のみを問題として市場に出してはならない本だとは思わない。しかし、もし回収されずに話題となり、多くの人が読むようになっていたら、今の日本のネット言論空間の傾向を見る限り、さらなる怒りや対立、それによって傷つく人たちを生んだだろう。そうなっていたら、出版社はどこまで対応できただろうか。
 
『中野正彦の昭和九十二年』回収について|イースト・プレス

昨日は風が強かった

 朝5時過ぎから、外のあちこちでガタガタ台風みたいな音がしてるなと思っていたら、一日中強風だった。

 ここのところ重いケースが続いて、連日1件1万字くらいの意見書を書いている。気分転換にググったら、卒論の相場は1万字らしい。分野にもよるだろうが、そんなものだったっけ。

 先日の三連休最終日に、ちょっと用事で池袋に行ったら、いけふくろうがあったかそうな格好をしていた。

 100均のそばを通ったら、マネキンが平然と段ボール箱の中に佇んでてびっくり。裏世界ピクニックでありそう。

 池袋は大変な人出で、新型コロナ感染状況と医療の逼迫[1]感染状況「第7波超えの可能性」 東京都医師会、医療逼迫に危機感:時事ドットコムを考えるとなかなか怖い。全国旅行支援も再開したようだし[2]全国旅行支援、当面は継続 コロナ拡大も経済重視 – 東京新聞、政府はもう感染拡大を抑える気はなさそう。

『The Unkept Woman』(Allison Montclair)

 大人になってから友達を作るのは難しい、とはよく聞くが、大人の世界もわりと「友達」にあふれている。ママ友/パパ友/趣味友しかり、facebookしかり(それにしても「友達」「親しい友達」「知り合い」分類の身も蓋もなさよ)。
 定義にこだわらず、なにかしらの形式を満たす「友達」を作るだけなら、大人になってもそれほど難しくなさそうだ。でも、その関係をどう維持するか(しないか)、深めるか(深めないか)は、子供時代と同じくやっぱり難しい。

 『The Unkept Woman』(Allison Montclair)は、グウェン(貴族の未亡人)とアイリス(元?スパイ)のデコボコ美女コンビが繰り広げるミステリシリーズ第4作。邦訳が出ているのは第3作『疑惑の入会者』までだけど、待ちきれなくて読んだ。

 第二次世界大戦直後の荒れ果てたロンドンで、ひょんなことから意気投合し、結婚相談所の共同経営を始めたグウェンとアイリス。いまや読者には無二の親友としか見えない二人の間にも、本作ではついに気持ちの行き違いが起こる。
 迷いながらも手を伸ばすグウェンのひたむきさと、迷いとは無縁のようでいてすべての決断が危うさを秘めているアイリスの脆さと、どちらも美しくて目が離せない。
 本作で「friend(s)」という単語は45回出てきた。前作では6回だったから、やっぱり本作のテーマのひとつは「友達」なんじゃないだろうか。

 心の奥底を(たとえそこから注意深く選び抜いたことだけにせよ)打ち明け合うことができると、いかにも友情感は深まる。その関係をたとえば友達レベル1とすると、そこから互いに「今あなたが必要」と訴え、「わかった」と応じる関係に至るまでには、友達レベル50くらいのだいぶ大きな飛躍が必要だ。このへん、恋も友情もあまり変わりないかもしれない。
 グウェンとアイリスを取り巻く男性たちとの関係も、本作で大きく動いていく。アイリスについていえば、えっ、そっちはレベル1で、そっちがレベル50だったの、みたいな驚きがあった。

 タイトルは最後まで読むとなるほど感。邦訳はどうなるのかな。

デジタルデトックス正月

 仕事だらけの年末を乗り越えて、三が日は本ばっかり読んでいた(ごはんもつくったし洗濯などもした)。

 Twitterをほとんど見なくなって、つぶやきたいことはMastodonでぽつぽつ、という生活をしていると、心が無駄に波立せられなくてよい(さっきうっかり見て、どよんとなってしまった)。

 椎名誠『失踪願望。コロナふらふら格闘編』。

 椎名さん読んだの、ものすごく久しぶりだ。
 小学生のときに「地獄の味噌蔵」を叔父の一人にもらってハマり、高校生になるころにはあまり読まなくなっていたのではないか[1]母方の叔父たちは、親が積極的には勧めないだろう本や漫画をいっぱい教えてくれて大好きだった。今も大好き。。SF作品の方がいいなと思うようになった記憶はある。

 今の子はどうだろうと思ってうちの高校生に聞いたら、「『岳物語』は、小学生のころ、塾のテキストとかテストでこれでもかってくらい出てきた。重松(*重松清)並の登場回数だった」とのこと。そこからさらに別の本に手を伸ばそうとまではならなかったようでちょっと残念。うちの本棚にもいろいろあるのに。

 で、その久々の椎名さんのエッセイ(というか日記文学)なのだが、これがしみじみとよかった。
 よかった、と言っていいのか。
 コロナ感染記は、とにかくアルファ株(と思われる)の症状が激烈で、よくぞ生きて帰ってくださったと思う。やはり感染は、一時的にせよ脳への影響がかなり大きかったようで、症状が一段落した後の「通りゃんせ」のエピソードはわりと背筋が寒くなった。

 何より、渡辺一枝さん(奥様)が完璧に素敵すぎる。

 そもそも魅力的な人だとは思っていた。
 結婚してから保育士の資格をとって保育所を作り、お子さんたちがある程度大きくなったら、40を過ぎた女性ひとりで念願のチベットを馬で駆け巡った人。今も社会運動と文筆活動で現役だ。
 その夫があの椎名さんと来ている。70歳を過ぎてとても元気とはいえ、コロナ感染前から不眠で薬を常用し、酒も(時に嘔吐するほど)よく飲む夫。その彼と「食事しながら一時間から二時間いろんな話を」し、「今のぼくには大切な時間になっている」と言わしめる。
 おそらくご夫婦で思想的には重ならないところも多そうだと推察されるが、何か絶妙にうまく互いに距離をとりつつ、かけがえのないパートナーとして人生を歩んでいる様子がうかがえた。

 わたしにとって「いちえさん」の勝手なイメージは、智恵子にならなかった高村智恵子だ。
 夫と同じ夢を抱きながら、夫が先にどんどんひとりでその夢を叶えていく。にもかかわらず着実に日々の生活を積み重ね、積み重ねたものをすべて背負って引き連れて、ぽんと自分の夢に向かって踏みだし、そうすることで家族ごと次のさまざまな生き方の揺籃となっていく、というような。

 とてもとても憧れるけれども、はたしてわたしはそういうふうになれるのかなあ。
 
 気になってしかたなくて、古書で椎名さんの『そらをみてますないてます』を手に入れて読んだ。
 いや、おい、イスズミ、まじで。
 ああいうことがあっての、その、今? みたいなきもち。

 夫にとってのイスズミがいたとわかったあと、夫があんなふうに劇症コロナで倒れたら、わたしはどうするだろう。どうできるだろう。

References
1 母方の叔父たちは、親が積極的には勧めないだろう本や漫画をいっぱい教えてくれて大好きだった。今も大好き。