昨日一日中降り続いた雨が上がって、爽やかな朝になった。
雨上がりの早朝に外に出ると、旅行先に来たような気分になる。
耳が不穏なので、午前中に耳鼻科に行って薬をもらい、午後から出勤予定。
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昨日一日中降り続いた雨が上がって、爽やかな朝になった。
雨上がりの早朝に外に出ると、旅行先に来たような気分になる。
耳が不穏なので、午前中に耳鼻科に行って薬をもらい、午後から出勤予定。
11巻特装版、フラゲしてしまったので読んじゃう!
萩尾望都先生『一度きりの大泉の話』読んだ。
身を切るような独白の悲しみと切なさに、何度も喉が詰まるような思いがした。
竹宮惠子先生の『少年の名はジルベール』と併せて読むと、まるで高村光太郎・智恵子夫妻のようではないかと思った。
芸術の同志がひとつ屋根の下に住むということはほんとうに難しい。
わたしの両親はどちらも音楽家だが、ひとりはプロの演奏家で、ひとりは教師になった。
その間に生まれたわたしが音楽の道に進んでみたいと言ったときには、家の中が修羅場になるからやめろと断念させられた。納得はしていないが、親の気持ちは非常によくわかる[1] … Continue reading
芸術に限らず、同じ分野で同じ仕事をしている者どうしが同じ空間で暮らすことは非常に難しい。
分野:同じ、仕事:別、居住空間:同じ
分野:同じ、仕事:同じ、居住空間:別
分野:別、仕事:同じ、居住空間:同じ
みたいに、どこかの要素をずらして、ようやく平和に息ができるようになる、みたいなところがある。
同じ/近い分野で同じ志を持つ他人どうしの共同生活が、どれだけ繊細で微妙なバランスの上に成り立っていることか。
他人から見たらささいかもしれない場面の数々に、互いに譲れない決定的な選択肢の分岐があって、そこを過ぎるともうどうにも戻れなくなってしまう。
あそこでああしていればよかったのに、などと言う資格のある人はこの世のどこにもいないだろう。
萩尾望都先生と竹宮惠子先生のお二方とも大好きだ、というファンはたくさんいると思うし、わたしもそのひとりだけど、自分の気持ちがやるせないからといって、安易にお二方に仲直りをしてほしいなどと言っても、願ってもいけないと、それだけはわかる。
↑1 | うまくやっている芸術一家はもちろんたくさんある。しかし子供が育てるに値するかどうかの判断はどこも厳しいはずだ。わたしの場合、単にそこまでの能力がない、それができるように育てるほどの価値もないと見限られたのだと思う。そして、わたしがどう感じようがその判断は正しかった。 |
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雨降ってきた。
居間からえらくいい声が聞こえてくるなと思っていたら、大塚明夫さんと山寺宏一さんが出てくる(吹き替えで)回のコロンボ(「殺人講義」)の録画を見ている人たちがいたのだった。
あとちょっと。がんばる。
『ノマドランド』が主演女優賞、監督賞、作品賞でオスカー。
これは納得の結果[1]映画2つ – Going Pollyanna。
不思議な授賞式だった。
「白すぎるオスカー」への抵抗を激しく示すように、白人以外の俳優・監督や作品への評価が際立った一方で、主演男優賞の発表(その場にすらいなかったサー・アンソニー・ホプキンスへの授与)の混乱はなんとも慌ただしく奇妙だった。
これが、今のアメリカエンタメ界ならではの「バランス」の取り方なんだろうか。
↑1 | 映画2つ – Going Pollyanna |
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ふだんめったにしないようなハードワークを一ヶ月以上続けるとこれはなかなかしんどいぞ。
そうか、しんどいから、わたしはふだんこういう働き方をめったにしなかったのだな。
ある程度めどがついたのでもう今日はここまで。明日のわたしさんにご期待ください(ばたり)。
休日在宅仕事。いっこ片づいてちょっとホッとした。
みんなが働いている時間は諸々のコミュニケーションに手と集中力を取られるため、まとまった起案ができるのは時間外になってしまう。つらい。
昨日書き忘れていたが、子供が『ローマの休日』を見たことがないと言うので(たぶん見たことあるはずだけど、すごく小さいときだったかも)、久しぶりに見た。
アン王女がジョーの部屋で目覚めるシーンで、子供「……『知らない天井』だ」
脚注挿入用に便利に使わせていただいていたプラグイン「footnotes」が、直近の更新以来、重大なエラーを吐くようになってしまった。
うちの環境だけかなと思ったけど、サポートサイトを見たら、全世界から同様の報告が殺到していた。もう少ししたら改善していただけるかなと期待(いつもありがとうございます)[1]4/26には改善された。早い。感謝。。
いよいよ大型連休目前。巻き巻きで(いつもそうだけど)がんばるぞ。
↑1 | 4/26には改善された。早い。感謝。 |
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吉幾三さんの『バイオハザード ヴィレッジ 公式イメージソング』。
「理性が無ェ 正気じゃねェ 人かどうかもわからねェ」
はずるすぎでは。
子供と見て死ぬほど笑った。
昨日(というか金曜の夜)は日付が変わるまで仕事して、今日は家事等々。
日曜も仕事しないと間に合わない。
25日から3回目の緊急事態宣言。
今、この国に欠けているのは長期的な視野に立った議論ではないかと思う。
感染拡大を抑え込むべきだと考える人と、かかる人はかかってもしかたないと考える人との分断がより深くなっている気がする。
去年前半は、みんなでステイホームがんばろう、というなんとはなしの連帯感がある程度あった。
先が見えなくなってしまった今、もはやそういうものはない。
ステイホームの必要性を主張すれば経済の敵、大人を在宅させるための手段としての休校措置を批判すれば公衆衛生の敵、と、議論が先鋭化してしまっていて、市民の気持ちがどんどんバラバラになっていってしまっている。
皆クタクタなのだと思う。
科学だけに基づいて考えるなら、
・新型コロナウイルスは、十分な免疫のないヒトからヒトに感染して増える
・ヒトとヒトとの接触機会を減らさない限り、ウイルスは増え続ける
・ウイルスが増えるときが、遺伝子変異のチャンス
・ウイルスが増える機会を温存している限り、今いる変異株が増える(そしてさらに変異する)可能性、まったく新しい変異株が生まれる可能性は常にある(というかかなり高い)
・短期間にたくさんの人に一気にワクチンを打てないなら、ヒトとヒトとの接触機会を厳しく減らすしかない
以外の結論にはたどりつきそうにない。
日本では、迅速かつ大規模なワクチン接種は無理そうだ。となれば、前回の緊急事態宣言解除程度のユルい基準を目標にしていたら、さらに何度も緊急事態宣言おかわりをしないといけなくなることは火を見るより明らかだ。
それでいいというのが大方の意見ならばいいのだが、何をもってそれでいいと判断できるのかは知りたい。
「効果的な対応策に的を絞って」「そのほかの人たちはできるだけ日常生活を維持する」というこれまでの日本の方針は、結局、「我慢しろと名指された人」と「名指されてはいないけど我慢と犠牲を強いられた人」と「それ以外の人」との間に深い溝を作ってしまった。
今は一気にウイルスを叩く必要があるとそれなりの数の市民が納得できれば、みんなで我慢してウイルスと戦おう、その代わりみんなに薄く広く補償しよう、という線で議論が進むかもしれない(もちろんその逆もある)。
しかし、そもそも、(ニアリー)ゼロコロナを目指すのかウィズコロナを維持するのか、そのあたりの根本的な課題から、政府も市民もずっと目を逸らしているように思えてしかたない。
皆が身近なフォロワー/フォロイーの目を気にして、わきまえて正しく怖れてさえいればいいと本質的な議論を避けているうちに、どんどん大変なことになりそうだ。
録画でSONGS筒美京平さんスペシャルを見た。
JUJUさんがカバーした『ドラマティック・レイン』があまりに素敵で衝撃を受けた。
わたし「正直、昔は、おじさんはこういう歌が好きなのねー、くらいで全然いいと思わなかったけど、これはいいね。JUJUさんはすごいね」
こども「というか、単におじさんに近づいたのでは……?」
わたし「……♪ハァーア 慈悲も無ェ 情けも無ェ」
昨日今日と全国的に暖かく、東京は夏日だった。乾燥しているので快適。
ついに冷やし麦茶はじめました。子供が「夏の味がする~! 鶴瓶の味」と喜んでいた。……鶴瓶さんの味???[1]♪ミッネラ~ル むっぎっちゃ
とにかく重い案件が続いて、ヒィヒィ言いながら仕事している。週末返上の疑いが濃厚。
子供が大きくなってくれていて本当によかった。
今日は在宅。夕方は、消防設備点検対応もした。
「避難ばしごのサビがヤバいです。確認しようとすると、このままストーンと落っこちてしまうかも」
「前回の点検のときもご指摘いただいたんですよね……」
「……大家さんに伝えときますね」
いざとなれば、お隣のおうちの屋根に飛び移って逃げた方が安全かもしれない。
↑1 | ♪ミッネラ~ル むっぎっちゃ |
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