たとえば環境問題

 先日、「日常的に日本語の偏った情報にばかり触れ続けている危険性が高まっているような気がする」と書いたことの例が、たとえば日本語twitterで影響力のある「論客」やインテリツイッタラーの、環境問題に対する姿勢。
 控えめに言って消極的、どうかすると否定的な人まで。

 今、グラスゴーでCOP26開催中ということもあって、世界的に環境問題に対する議論が盛り上がっている。もちろんさまざまなテーマで意見が対立しているから盛り上がっているのだが、少なくとも大きな流れは、地球環境の将来を考えれば温室効果ガスの削減は待ったなしの課題だ、という最低限の認識のもとに進んでいるはずだ。
 これまで化石燃料に頼ってきた産業が打撃を受けることも当然無視はされておらず、経済についてはグリーン関連技術のイノベーションを起こして活性化を図ろうという考え方が主流のはず。貧困国の環境対策を先進国が支援する必要性もとうに議論されている[1]【COP26】 貧困国の気候対策支援、イギリスが440億円超の拠出を約束 – BBCニュース
 環境問題に取り組む必要性ありきで、付随して起こる問題をどのように、どの程度のスピードで解決するか、が議論の中心になっていると理解している(トランプも去ったし)[2]COP26、米中が共同声明 中国が予想外の協力姿勢

 翻って日本では、まだまだ環境問題は一部の活動家が騒いでいる問題、くらいの認識の人が多そうに見える。Twitterでは、環境問題そのものよりも、環境活動家がいかにエキセントリックなやつらで経済の敵であるかと非難を浴びせることに汲々としている「論客」やインテリツイッタラーすらよく見かける。
 注目すべきは、たとえば大学教員のような教養と地位のある人とその取り巻きたちが、環境問題を党派性の問題に矮小化して(あるいは利用して)、気にくわないクラスタを叩く道具にして満足していることだ。経済に配慮せよが彼らお気に入りの標語だが、実際はその経済界が、環境問題への対応が遅い日本の状況に警鐘を鳴らしている[3]トヨタの危機感を共有できているか 脱炭素からは誰も逃れられない
 この視野狭窄ぶりはいったいどうしたことだろう。

 日本のインテリツイッタラーの多くは、地位相応の責任を負ってその頭脳を生かすことより、強者とみられることを極端におそれ、自分の地位は見ないふりをして、身近なフォロワーに嫌われないことのために頭脳を使う方向にひたすら熱心に見える。
 だから、弱者を自称する冷笑系アカウントに媚び、やがて彼らのつくるエコーチェンバーに取り込まれて、その中の人たちに嫌われないようにすることだけを考え、視野が狭まっていくのだ。リベラル叩き、フェミ叩きがすっかり板についてしまい、日文研の呉座先生が落ちた陥穽まであと数歩と見える知り合いもそれなりにいる。

 先日の衆院選で、そういった人たちがいっせいに推していたのが国民民主党だったが、玉木代表が維新との連携を表明したとたん、慌てていたのが滑稽でもあり、残念でもあった。希望の党からの流れを見ていれば、彼らが維新と親和性が高いのは明らかだったはずだし、改憲に前向きだったのも昔からだ。エコーチェンバーの中の仲間に嫌われることだけをおそれていると、そこまでものが見えなくなるものだろうか。

 教養や地位を持っていながら、その点において強者であることを認めることから逃げ回り、その教養や地位を真に弱者のために使おうともしない精神的脆弱さから、日本のインテリツイッタラーはいいかげん卒業すべきだ。

 なお、国民民主に投票しつつも維新との連携を表明したことに慌てなかった知り合いもいる。思想的には相容れないところも多いが[4]わたし自身は、小選挙区は立民、比例は共産に入れた。、その強靱な知性と豊かな人格をかねがね尊敬していた人で、さすがだと尊敬を新たにした。彼のようにありたいものだと思っている。