朝、出勤前に花見さんぽ。
わたしと同じような通勤姿の人たちが、ちらほら立ち止まって桜を見ていた。皆さん、それぞれにいろいろな思いを抱えてここに立っているのだろう。
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ひととおりその分野を勉強した後で、あらためて最初から読むことで、その基本書を書いた先生の哲学が身にしみるということがある。
それを鮮烈に体験し、また体験し直すというのは、この年になった自分にとってとても、とても大切なことなのではないか。
雨が降ったり止んだりの土曜日。
ギリギリで民訴基礎研修最終回受講完了。ちょうど新型コロナが日本に入ってきたあたりの収録だったそうで、この回のみ無観客収録。講師の村西先生が、「来年、再来年にご覧になる方は、そんな騒ぎもあったなあ、という感じかもしれませんが」とおっしゃっていたけれども、なんのなんの、未来の日本も絶賛大騒ぎ中です。
確認テスト一発合格で気分よく修了。
それにしても村西先生の講義は素晴らしい。1.5倍速で何度も復習するぞ。ちなみに確認テストは全回分、解答と共に手元に保存済み。
夕方、買い物に出たら、もう桜がだいぶ咲いていた。明日はちょっとお花見散歩に行こうかな。
今週は平日の夫の誕生日をうっかりスルーしてしまったので、満を持して週末にということで、きれいな金目鯛を2尾、どどんと使ったアクアパッツァ。作るのラクだから普段もよくつくるとはいえ、材料が豪華なのでごちそうということで堪忍。
このまま行けば3月も乗り切れそう。
今週は、子供が3日間、朝から夕方までみっちり全学年で討論するという昼食つきの学校行事(任意参加)に参加していて、夫も2日間は昼がいらないというので、週の後半は在宅で、誰にも邪魔されず、厄介な仕事たちとみっちり取り組むことができた。食事を担当しなくていい人たちにはすさまじいアドバンテージがあることを実感。
ウクライナのゼレンスキー大統領が、日本の国会でオンライン演説をしたのを聞いた。
震災、東電原発事故、地下鉄サリン事件といった言葉をひとつも使わずに、これらを経験した日本の人たちの想像力にダイレクトに働きかけつつ、ウクライナへの侵略の津波を止めなければいけない、と述べた後、この戦争が終わった後の復興と、避難した人々が故郷へ帰還したいと願っていることを訴えて支援を呼びかける内容。想像力のある人が、相手の想像力に信頼して語りかけるとはこういうことかと思った[1]「ウクライナへの侵略の津波を止めたい」 ゼレンスキー大統領が12分の演説で訴えたこと【全文】〈AERA〉。
ロシアは、病院や子供の避難所や、弱い人たちがいるところを集中的に攻撃している。
加えてマリウポリですさまじい大虐殺と連行が行われているのを、どうやったら止めることができるのだろう。
夕ご飯食べながらFNS歌謡祭。
ミュージカルパートがたっぷり取られていて、子供大歓喜。
A Knight’s Taleの「宿敵がまたとない友」をフルコーラス完璧に歌っててさすが。
ひっ迫は逼迫と書きたいとこではある。
先日の震度6強の地震の影響で大きな火力発電所が停止し、復旧にはしばらくかかる見通しの中、今日は気温が低下して、東電・東北電の管内で電力の需給が厳しい状況となった。
朝から各メディアで節電が呼びかけられていて、震災直後を彷彿とさせる雰囲気に。
ディスカッションしたいこともあったし、自宅の仕事部屋で電力使うよりはと出勤したけど、いつどこが停電になってもおかしくない状態で、ひょっとしたら帰宅困難になるんじゃないかとひやひやしながら仕事した。
今日は一日冷たい雨で、ときどきみぞれや雪も。なんて日だ。
少子化傾向にも伴い、リカレント教育とか生涯学習とかに脚光が当たっている昨今、大人になってから「学ぶ」ことの意味と価値についてしばしば考える。最近は、主婦として子供を育てながら大学院で研究していることを表明した女性に、批判と応援が殺到して大騒ぎにもなった[1]専業主婦が大学院に行ったらダメですか? 批判された当事者の思い。
意味があるかないかと言えば、学びの主体となっている人にとっては、それは確実にあるだろう。学びを止める権利のある他人などいるはずもないし、ましてや学びに向かう意欲や営みをおとしめることのできる他人はいない。
価値はどうか。それも当然、学びの主体となっている人にとってはかけがえのない価値があるはずだ。学んで得たことは誰にも奪うことはできない。その主観的な価値を否定することは誰にもできない。
ただ「学んでいる」「学び続けている」という営みが、それだけで客観的かつ普遍的な価値を有すると主張しうるかといえば、それは難しいところだろうと思う。客観的かつ普遍的な価値を有するかどうかは、学びの結果として新たに生み出されたものでしか評価され得ないからだ[2]一般的な教育の価値を否定するものではない。できるだけ多数の人たちが学びの機会を得られるべきであることはいうまでもない。。
学問の世界でいうなら、個々の研究者のバックグラウンドはどうあれ、その分野に新しく積み上げたものがあるかないかでしか評価されない[3]経済的価値の話ではない。学問の分野に新しいレンガをひとつ積み上げることができたかどうかという話だ。。こよなく「太い」実家の支援を得て何不自由なく研究に専念してきた研究者の業績も、苦学生が数々の副業と困難の末に生み出した業績も、背後のストーリーは関係なしに評価される。短期的に学閥やコネクションが影響することはあろうとも、なにがしかの形で業績が残されていさえすれば、長期的には歴史の審判を受けて、まっとうな評価を受けていくことになるだろう。
そうすると、不遇を乗り越えて学びに向かうということは、非常に意味があることではあるけれど、学びに向かったというただそれだけのことをもって、自分の価値を高く評価してくれと他者に要求できることはありえない。他者に価値を認めさせたいのであれば、それはやはりストーリーではなくて、自分が生み出したものに基づかざるを得ない。
ストーリーだけを売りにするという生き方もあるかもしれないが、それでは早晩、自分が耐えられなくなるのではないか。たとえ耐えられたとしても、そういう生き方に批判を向けてくれる人たちがいない中で生きていくのはつらそうだ。最終的に自分の挑戦が何を生むことができなかったとしても、挑戦したということだけに意味を見いだしてくれる人はいるかもしれない。しかし、そういう人が出てきてくれることを期待して、ただ挑戦したという経歴を残すことだけを目的に生きるのは、甘えであり怠慢であり堕落であろうと思う。
女性はこの点、非常に狭い綱の上を渡っているようなところがある。
多くの女性が挑戦し得なかったことに挑戦したという、ただそれだけで、何も生み出さない前にもてはやされたりもする。
そもそも挑戦することに障害があり、挑戦し始めたら、今度はスポイルされかねない危険が待っている。
前者の障害を取り除くことについては多くの人たちが取り組んでいるところではあるけれど、後者の危険については自分自身でしか克服することができない。もう少し女性に与えられる機会が増えるまでは、この綱の上をどうにか渡っていかなければならない。
↑1 | 専業主婦が大学院に行ったらダメですか? 批判された当事者の思い |
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↑2 | 一般的な教育の価値を否定するものではない。できるだけ多数の人たちが学びの機会を得られるべきであることはいうまでもない。 |
↑3 | 経済的価値の話ではない。学問の分野に新しいレンガをひとつ積み上げることができたかどうかという話だ。 |
期限ものラッシュがちょっと落ち着いてきた。いやー、しんどかった。しかし、お仕事をいただけるのはありがたいことです。
絶賛、付記試験の勉強中でもあり、ダニング・クルーガー現象からの「わたしなにもわかっていなかった(ズーン)」の繰り返し。でも楽しいね。思い立ってよかった。
一貫校だからあまり実感がないのだけど、子供が今春、中学を卒業して高校に進学するのであった。
義務教育が終わると思うと、なんとなく一仕事終えた気分。
入学金の支払も先ほど完了。中学校入学時とは異なり、ネットで手続完了できるようになって助かる。
miraicompassの入学金決済システムは初めて使った。[1]中学受験のとき、併願校のうち2校のインターネット出願では使ったことがある。
クレジットカード、ペイジー・金融機関ATM(現金)(10万円まで)、ペイジー・金融機関ATM(カード・通帳)、ペイジー(ネットバンキング)と4つ選択肢があるうち、クレジットカードとペイジー(ネットバンキング)は事務手数料がやたらと高い。
しかたないかとペイジー・金融機関ATM(カード・通帳)を選択して申し込みを済ませたものの、わざわざATMに行くのがめんどくさいので、試しに、発行された諸番号を金融機関のネットバンキングのペイジーサイトに入力したら、普通に支払完了できてしまった。手数料も安いまま。
ん? ということは、ペイジー・金融機関ATM(カード・通帳)と、ペイジー(ネットバンキング)の違いとは??
あとは諸々の書類を記入して提出すればよい。
いやー、ついに高校生の親かー。毎週ジャンプ読んでサンデー読んでアニメ見てゲームに興じる親になってしまった。
↑1 | 中学受験のとき、併願校のうち2校のインターネット出願では使ったことがある。 |
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