つぶやき

  • ウグイス

    今年は仕事部屋からウグイスの声が聞こえないなと思っていたら、今朝、1羽、懸命に鳴いているのが聞こえた。
    わりと上手なので、どこかで練習してからこっちに来たんだろうか。「ホー」と「ケキョ」の間にいまひとつタメが足りないまま荒ぶっているところに、ちょっと焦りを感じる。
    去年のウグイスリサイタル全盛期は4月だったので、あぶれた子がこっちに遠征してきたのかもしれない。

  • リモート環境

    改善型ビューアへの移行に伴って、Agentのマルチモニタを一枚一枚切り替えないと見えなくなったり(以前はカーソル移動するだけで、ずずーっと画面移動できた)、自宅モニタと解像度が合わずににじんで見えたりするようになって、ちょっとやりづらかった。

    結局、標準ビューアを選択して接続し、Clientを表示する自宅モニタの表示倍率を推奨に戻すといちばん見やすい。
    改善とは。

    改善型ビューアがさらに改善されて、マルチモニタ対マルチモニタで表示できるようになるといいのだけど。

  • オンラインミーティング3連発

    やりとげた! ビールおいしい。

  • 220510

    あいかわらず忙しいのは変わらないけど、日曜日に好き放題遊んだおかげで、耳は落ち着いてきた。
    薬よりはるかに効く。ストレスこわい。

    明日午後は分刻みで、研修講師→海外web会議→研修懇親会(オンライン)。

    このweb日記を作って1年以上。それなりに記事がたまってきて、自分で読み返すと楽しい。書かずにはいられない性分でよかった。

  • 自分を甘やかす

     宣言どおり、ゴールデンウィーク最終日の昨日は、のんびり自分を甘やかして過ごした。

     名人戦第3局を横目で見つつ、Kindleのセールでまとめ買いしたビブリア古書堂の事件手帖シリーズを一気読み。
     さらに、ずっとやってみたかったカリンバが届いたので遊ぶ。
     夕方くらいからワインを開けてちびちび飲みつつ、鯛とアサリのアクアパッツァを作って食べる。
     などなど。

     カリンバは、とりあえず17キーのオーソドックスなものを買った。これが楽しいこと楽しいこと。
     半音が出ないので、適当に移調してどうにかなる曲で練習している。
     和音の練習でやりやすいのは、季節感はともかく「ジングルベル」。
     カリンバの音に合っていて、弾いていて気持ちいいのは「いつも何度でも」かな。
     あとはやっぱり、昔の唱歌が弾きやすい。「夏は来ぬ」とか「茶つみ」とか。
     特に楽譜やタブ譜を見ているわけではなく、メロディー耳コピで、適当に音を足して遊んでいる。これは時間が溶ける。
     もうちょっと慣れたら、クロマティックキーがあるものもほしいかも。

  • 220507

    一日おべんきょう。
    さすがに休み中もがんばりすぎたのか、昨日から軽いめまいが止まらず、かかりつけからもらってあるお薬でなんとか乗り切った。
    ちょっとしっかり休もう。

  • 220505

    今日は自分が講師の研修のスライド作り。よく働いているゴールデンウィークだなあ。

    (「ゴールデンウィーク明けに」とぼやかしてお約束したケースなどなどがあるため、日曜まではゴールデンウィークであるという姿勢を明確にする目的で、「よく働いたゴールデンウィーク」ではなく「よく働いているゴールデンウィーク」と書いている)

  • 三途の川の渡り方問題

     昨日、Twitterが突然、女性ははじめての相手に背負われて三途の川を渡る説で盛り上がっていて、元ネタをたどったらこれだった。

     よく聞くけど、そうはっきり書いてあったっけなと改めて確かめてみたところ、問題の箇所は下巻。
     蜻蛉日記の作者である藤原道綱の母自身ではなく、その息子、道綱が、思いを寄せていた女性と交わした歌である(以下、引用は『新版 蜻蛉日記II(下巻)現代語訳付き』(角川ソフィア文庫)から)。

    わずらいたまひて、
    二八四(道綱)みつせ川浅さのほども知られじと思ひしわれやまづ渡りなむ

    返し、
    二八五(女)みつせ川われより先に渡りなばみぎはにわぶる身とやなりなむ

     川村裕子さんによる訳は

    病気におなりになって、
    二八四(道綱)あの世にあるという三途の川。その浅さ深さの程度を知らないで渡るのか、と不安に思っていた私が、たった一人で先に渡ることになるのでしょうか。

    二八五(女)三途の川を、あなたが私よりも先に渡ってしまったなら、私は後に残されて、水際でたった一人、途方にくれる身となるのでしょうか。

     「女性ははじめての相手に背負われて三途の川を渡る説」が蜻蛉日記に書かれているというより、そういった当時の俗説を下敷きにした歌が蜻蛉日記に書かれている、と言った方が正確そうだ。
     しかも、ここだけ見る限りは、「女性が」「そのはじめての相手に」というところまで特定された説だったのかを判断することはできない。
     
     ざっとネットや手元の本を検索した限りでは、『大和物語』111段

    この世にはかくてもやみぬわかれ路の淵瀬をたれに問ひてわたらむ

     『源氏物語』真木柱

    「おりたちて汲みは見ねども渡り川
     人の瀬とはた契らざりしを
     思ひのほかなりや」
    とて、鼻うちかみたまふけはひ、 なつかしうあはれなり。
    女は顔を隠して、
    「みつせ川渡らぬさきにいかでなほ
     涙の澪の泡と消えなむ」
     「心幼なの御消えどころや。さても、かの瀬は避き道なかなるを、御手の先ばかりは、引き助けきこえてむや」と、ほほ笑みたまひて、

     『とりかへばや物語』

    わがためにえに深ければ三瀬川後の逢瀬も誰かたずねむ

    三瀬川後の逢瀬は知らねども来ん世をかねて契りつるかな

     あたりが、三途の川関連の記載として有名みたいだ。
     いずれも、三途の川を渡るパートナーとして「女性にとってのはじめての相手」を明確に特定はしていないが、特にとりかへばやの「わがためにえに深ければ」の歌からはそう解釈するのが自然のように思う。

     しかし、これが三途の川の瀬の部分[1] … Continue readingを渡るための唯一のルールだとすると、現場のオペレーションがどうなっていたのかが気になってくる。
     どうも男性はひとりで三途の川を渡れるらしいが[2]道綱は、自分が死んだら先に渡っちゃうよと言っている。甘えて拗ねてみせてるのかもしれないが、待っていればいいのに冷たい。、女性は男性がいないと渡れないらしい。
     であれば、女性を複数水揚げした男性が、お相手全員分の渡し守をやればよい[3]源氏は玉鬘の手くらいは引いてやるよと言っている。背負わないんかい。玉鬘はひとりでも渡れそうだけども。
     ただしこれでは、子供たちや相手のいなかった女性たちなど、どうしても積み残しが出てきてしまう[4]子供には賽の河原がある、と最初は考えたけど、賽の河原説は室町時代発祥のようなので。
     Wikipediaによると、「平安時代の末期に、『橋を渡る(場合がある)』という考え方が消え、その後は全員が渡し船によって渡河するという考え方に変形する」とある。なるほど、これで万事解決だ。
     渡し船の登場は、平安中期ごろまでに川辺に積み残された人口が増えすぎたあの世からの要請でもあったのだろうか。そんなわけないか。

    References
    1「善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた」三途川-Wikipedia
    2道綱は、自分が死んだら先に渡っちゃうよと言っている。甘えて拗ねてみせてるのかもしれないが、待っていればいいのに冷たい。
    3源氏は玉鬘の手くらいは引いてやるよと言っている。背負わないんかい。玉鬘はひとりでも渡れそうだけども。
    4子供には賽の河原がある、と最初は考えたけど、賽の河原説は室町時代発祥のようなので。
  • 仕事漬けの連休

    連休直前や連休中にどっさり指示が来たものだから、ちょっとでも片付けとかないと大変なことになるんじゃよ。

  • 『失楽園』とか『愛の流刑地』とか

     今さら読んでみたという話。

     少し前に、日経新聞が漫画『月曜日のたわわ』の全面広告を出した件でネットが燃えさかっていた。[1]「月曜日のたわわ」全面広告が日本経済新聞に「不安を吹き飛ばし、元気になってもらうため」(コメントあり)[2] … Continue reading
     そのときにTwitterで、日経新聞は『失楽園』とかを堂々と掲載してたから通常運転じゃん、みたいな意見をちらりと見かけて、そういえばあれだけ社会現象になったのにまだ読んでなかったな、と急遽『失楽園』を読んでみることにしたのだ。

     小学生のころ、家にあった週刊朝日で連載されていた『桜の樹の下で』を盗み読みして、この渡辺淳一という人のはなんか読んじゃいけないやつだ……と思った(でもときどきこっそり読んだ)記憶がある。それ以来の渡辺淳一。

     文章が美しくてわかりやすい上に、エピソードが華麗に次々展開するので、するする一気に読める。ラブシーンは、だいたい女性が書いたものの方がわたしはどきどきするのだけど、男性の書き手の中では好きな方だと思う。とはいえ、ところどころハウツー本みたいに、どこをどうしたら女の人が喜ぶ、みたいな蘊蓄が挟まるので、そこが興醒めではあった。そういう蘊蓄とか、デートはどうセッティングするといいかとか、おしゃれでおいしいものと言えば何かとかみたいな実用的な側面も、当時の男性読者には受けたんだろうか。しかし、これを読んで真似したら、相手の女性が同じく読者だった場合にネタ元がお察しになってしまう危険性もあるのでは。
     いちばんびっくりしたのは主人公の久木(くき)が、閑職に追いやられたという設定にもかかわらず、月に100万円程度の収入があるということ。えっ、なにそれ、わたしもそれになりたい。

     ついでに、『失楽園』(1995年連載開始)の9年後に、やはり日経新聞で連載されて話題になった『愛の流刑地』(2004年連載開始)も読んでみた。
     こちらでは、主人公の菊治の月収が、自由業とはいえおよそ50万円と久木の半分に減っていて、バブル崩壊後の失われた20年の重みを感じる。
     文章の美しさも切れ味も『失楽園』と比べるとだいぶ鈍ってきていて、最初はコミカル路線を狙っているのかなとすら思ったくらい。「今まさに二人は合体している」って釣りバカ日誌かな。

     時代を感じたのは、主人公と相手の女性が携帯でメールを打ち合うシーン。

     「君のご主人がどんな人でも、僕は君を愛している。誰よりも冬香が好き」
     そのあとに、ハートマークを三つつけて送ると、すぐ冬香から返事がくる。
     「わたしもです。もう少しでそちらへ行きますから、忘れないでいてくださいね」
     そこにも、ハートマークと笑顔がついていて、菊治はようやく安堵する。

     いわゆる「おじさん構文」のひとつの源流を見た気がした(ちなみに菊治は45歳、冬香は36歳)。

     恋愛パートはだいぶいまいちだったが、裁判パートはおもしろかった。もしかすると、作者としては裁判パートの方が書きたかったのかもしれない。しかしラストの決めゼリフはそれしかなかったのか。なかったんだろうな。
     総じて『失楽園』の方が色褪せない魅力があるように思う。ある程度の年齢になって恋愛小説を書くのは大変そうだから、書くなら元気なうちに書こうと思った。

     ちなみに映画版の『失楽園』もNetflixでこっそり見てみた。森田芳光監督の作る映像の美しさと表現力が素晴らしくて、ストーリーは正直どうでもよくなるが、脚本も長編を要領よくまとめ、テーマを際立たせているのが見事だった。久木(役所広司)とその親友の衣川(寺尾聰)が一緒に飲むとき、お互いに似ているけれど少し違う食べ物を頼んで笑い合う、といった小さなオリジナルエピソードもグッとくる。
     映画では、久木の娘の知佳(木村佳乃)が医療関係の仕事(おそらくは医師)をしているように見える。原作では知佳は専業主婦なので、これは映画オリジナルの設定だ。久木が凛子と死出の旅に出る前、妻や知佳に別れを告げ、知佳が「行かないで」とすがるシーンが原作にもあるが、知佳の職業を頭に置いて見ると、映画でのこのシーンは、知佳が久木の死を察して必死で止めているようにも受け取れて、切なさが五割増しになる。
     ラブシーンは最初はどきどきして見たけど、何度も見ているうちに、飽きはしないものの「なるほど……」という気持ちになってくる。確かにこういう気持ちにしかならなくなったら、死ぬほかないかも。黒木瞳さんがべらぼうに可愛らしくて美しかった。
     

    References
    1「月曜日のたわわ」全面広告が日本経済新聞に「不安を吹き飛ばし、元気になってもらうため」(コメントあり)
    2広告単体で見る分にはわたしは特に問題は感じなかったものの(原作は好きではないけど数話読んだことがある程度)、ヤンマガ編集部が出したコメント「4月4日は今年の新入社員が最初に迎える月曜日です。不安を吹き飛ばし、元気になってもらうために全面広告を出しました」と組み合わせると、とたんに残念なメッセージ性を帯びてきてしまうなと思った。大人が「元気に」なるための手段として制服姿の少女を使うというのは、子供の前で大人が発するメッセージとして決して好ましいものではない。初めて制服で電車通学する新入生たちは、不安を吹き飛ばすどころの話ではなくなる。