三途の川の渡り方問題

 昨日、Twitterが突然、女性ははじめての相手に背負われて三途の川を渡る説で盛り上がっていて、元ネタをたどったらこれだった。

 よく聞くけど、そうはっきり書いてあったっけなと改めて確かめてみたところ、問題の箇所は下巻。
 蜻蛉日記の作者である藤原道綱の母自身ではなく、その息子、道綱が、思いを寄せていた女性と交わした歌である(以下、引用は『新版 蜻蛉日記II(下巻)現代語訳付き』(角川ソフィア文庫)から)。

わずらいたまひて、
二八四(道綱)みつせ川浅さのほども知られじと思ひしわれやまづ渡りなむ

返し、
二八五(女)みつせ川われより先に渡りなばみぎはにわぶる身とやなりなむ

 川村裕子さんによる訳は

病気におなりになって、
二八四(道綱)あの世にあるという三途の川。その浅さ深さの程度を知らないで渡るのか、と不安に思っていた私が、たった一人で先に渡ることになるのでしょうか。

二八五(女)三途の川を、あなたが私よりも先に渡ってしまったなら、私は後に残されて、水際でたった一人、途方にくれる身となるのでしょうか。

 「女性ははじめての相手に背負われて三途の川を渡る説」が蜻蛉日記に書かれているというより、そういった当時の俗説を下敷きにした歌が蜻蛉日記に書かれている、と言った方が正確そうだ。
 しかも、ここだけ見る限りは、「女性が」「そのはじめての相手に」というところまで特定された説だったのかを判断することはできない。
 
 ざっとネットや手元の本を検索した限りでは、『大和物語』111段

この世にはかくてもやみぬわかれ路の淵瀬をたれに問ひてわたらむ

 『源氏物語』真木柱

「おりたちて汲みは見ねども渡り川
 人の瀬とはた契らざりしを
 思ひのほかなりや」
とて、鼻うちかみたまふけはひ、 なつかしうあはれなり。
女は顔を隠して、
「みつせ川渡らぬさきにいかでなほ
 涙の澪の泡と消えなむ」
 「心幼なの御消えどころや。さても、かの瀬は避き道なかなるを、御手の先ばかりは、引き助けきこえてむや」と、ほほ笑みたまひて、

 『とりかへばや物語』

わがためにえに深ければ三瀬川後の逢瀬も誰かたずねむ

三瀬川後の逢瀬は知らねども来ん世をかねて契りつるかな

 あたりが、三途の川関連の記載として有名みたいだ。
 いずれも、三途の川を渡るパートナーとして「女性にとってのはじめての相手」を明確に特定はしていないが、特にとりかへばやの「わがためにえに深ければ」の歌からはそう解釈するのが自然のように思う。

 しかし、これが三途の川の瀬の部分[1] … Continue readingを渡るための唯一のルールだとすると、現場のオペレーションがどうなっていたのかが気になってくる。
 どうも男性はひとりで三途の川を渡れるらしいが[2]道綱は、自分が死んだら先に渡っちゃうよと言っている。甘えて拗ねてみせてるのかもしれないが、待っていればいいのに冷たい。、女性は男性がいないと渡れないらしい。
 であれば、女性を複数水揚げした男性が、お相手全員分の渡し守をやればよい[3]源氏は玉鬘の手くらいは引いてやるよと言っている。背負わないんかい。玉鬘はひとりでも渡れそうだけども。
 ただしこれでは、子供たちや相手のいなかった女性たちなど、どうしても積み残しが出てきてしまう[4]子供には賽の河原がある、と最初は考えたけど、賽の河原説は室町時代発祥のようなので。
 Wikipediaによると、「平安時代の末期に、『橋を渡る(場合がある)』という考え方が消え、その後は全員が渡し船によって渡河するという考え方に変形する」とある。なるほど、これで万事解決だ。
 渡し船の登場は、平安中期ごろまでに川辺に積み残された人口が増えすぎたあの世からの要請でもあったのだろうか。そんなわけないか。

References
1「善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた」三途川-Wikipedia
2道綱は、自分が死んだら先に渡っちゃうよと言っている。甘えて拗ねてみせてるのかもしれないが、待っていればいいのに冷たい。
3源氏は玉鬘の手くらいは引いてやるよと言っている。背負わないんかい。玉鬘はひとりでも渡れそうだけども。
4子供には賽の河原がある、と最初は考えたけど、賽の河原説は室町時代発祥のようなので。
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