月別アーカイブ: 2021年12月

電鍋で煮豚

フライパンで焼き目をつけた肩ロースブロック(スーパーでもうたこ糸巻いてくれてるもの)を電鍋に入れて、砂糖、醤油、みりん、酒、生姜、にんにく、ねぎの青いとこ、セロリを適当に入れてスイッチぽん。できるかな、できるかな。

できた。もう今タチドコロニ食べたい。

フォーカスが卵に合ってしまったので小さめ画像で。

今年のネット活動を振り返る

今年はなんと言ってもこのブログを作ったのが大きかった。
今ではかなり多くの方に読んでいただけるようになったので、そろそろ少しずつ、気が向いたら自分から広報していくようにしてもいいかもしれない。

ネットのおしゃべり空間をこの一年眺めていて、思った以上に皆、モチベーションを求めているのだな、とハッとすることが多かった。

日々、何を話題にするか。
何を読むか、何を見るか。
感じたことや思ったことをどういう言葉で表現するか。
どう生きるか。

すべてについてまったくオリジナルな発想に基づいて行動できる人などいるはずもない。しかし、オリジナル成分多めのアウトプットができる人と、そうでない人との違いは厳然としてある。そして、数少ない前者に頼る後者の数がどんどん膨れ上がりつつあり、それで成り立っているのが、今のネットのおしゃべり空間なのじゃないかという気がしている。

わたし自身はその前者でありたいと思っているし、広くはないにせよ一定の空間において、そうあることができているとの自負もある。
あからさまにアイデアや表現をもっていかれたな、クレジットもなしに、と思ったことも二度や三度の話ではなくて、それをくやしいと感じたり、消費されてすり減らされたように感じてしまう自分の心と、どう向き合うべきかを考え続けた一年でもあった。

結果、今でも完全に悟ることができたわけではないけど、中間的な結論としては、わたしに表現やモチベーションを頼る人たちをどうにかしようとするより、わたし自身が書きたいと思うこと、読みたい、見たいと思うこと、表現したいこと、こう生きたいと思うあり方を、変わらず発信し続ける方がいいだろう、と考えるに至った。
他人をどうにかしようとあがいても何も残らないが、自分が書いたものは残り続ける。それを見て判断してくれる人は必ずいるはずだ。

年末年始ごはん

重い野菜は午前のうちに近所のスーパーで買っといて、午後はデパートで各種肉類などお高めのタンパク質をゲットした。

黒豆は昨日実家からもらってきたので、今年はもう煮ない。ついでにかまぼこももらったので助かった。
数の子は今日から塩を抜き始めた。明日、土佐醤油に漬け込んで明後日から食べる予定。お雑煮用のほうれんそうはゆがいて切って冷凍済み。
明日はなますとかごまめとかでっかい肉とかがめ煮とか、食べたいおせちを気が向くだけ作るのだ。

今日の昼は焼きそばで、夜は昼のうちに仕込んでおいたおでん、と菜飯(小松菜ゆがいて細かく切ったものに塩とすりごまを和え、炊き立てごはんとざっくり混ぜる)。

明日はカニが届く予定なので、昼のうちにお蕎麦食べて、夜はカニに集中するさくせん。
元日はお雑煮とかおせちとかしゃぶしゃぶとか。
2日はおせちに加えてオードブルを追加投入。夜は鍋もできるはず(空も飛べるはずみたいに)。
3日はもう通常モードに戻り始める予定だけど、鍋とかで楽はさせてもらう。小腹が空いたときなど用に、肉まんあんまんも買ってあるし、ちょっと気になってたスイーツもお取り寄せ済み。完璧な布陣では。

東京76人

いよいよ感染者数増加の傾向が鮮明になってきてしまった。

もうずっと書いてきていることではあるけど、全世界一丸となってゼロコロナを目指さない限り、ヒト集団か動物集団かその両方かで新しい危険な変異株が増えるリスクを常にはらみ続けることになる。
ウイルスの性質かワクチンの効果かその両方かのために、見かけの重症化率が少しくらい低かったとしても、全体の感染者数が増えれば、重症に苦しんだり命を落としたりする人の数は変わらないか多くなってしまう。たまたま生き延びることができた人が大したことはなかったと判断するのは、傲慢だし倫理的にも誤りだ。

世界はどういう結論に向かうのだろうか、という広めの視点から見た感慨もさることながら、コロナ禍で日本に閉じこもっている人たちもいるみたいだけど、うちは海外脱出して子供に国際経験を積ませられてる、とマウント取ってた人の居住国が過去最悪の感染拡大と規制強化に向かっているのを見ると、禍福は糾える縄の如しの感を禁じ得ない。

自分のため、自分の家族のために選んだ環境や選ばざるを得なかった環境がどんなものであろうとも、それを誇るために(または納得するために)他の環境や他人の能力を貶めるようなことだけは絶対にしたくない。たとえ今の環境に甘んじたくないと思ったとしても、そう思った自分自身の問題と、環境そのものの問題とを十分に切り分けて語ることができないのであれば、むしろ口をつぐむ勇気を持ちたい。また、そのように口をつぐんでいるであろう多くの人たちへの想像力を持っていたい。

仕事納めて大掃除

この時期、自分のところに来た仕事のボールはとっとと投げ返すのがいいのか、逆に持っててあげた方が親切なのか迷うところだけど、投げ返せちゃうのだものね……しかたないね……。無事に手が空になりました。

あとはリビングの窓ガラス拭いて、カーテン洗って干して、お風呂場のカビ取りして、台所の壁拭いて、ガスレンジまわり綺麗にして、小物入れとかも洗って綺麗にした。
わたしすごい、と思ったけど、このスピードでできるのなら、もっと前にやっときゃよかったのでは。

年賀状投函

完了。

前回、多くの方には年賀状じまいのご挨拶をして、今回からはごく親しい方にだけ、私的報告とメッセージ多めの賀状を出すことにした。
連名にもしないので、主語を完全に自分にできて長文が書きやすい。自分の近況写真もちっちゃく入れちゃうよ。

年賀状はわりとそのご夫婦のあり方が見えてどきどきするものがある。
ああ、ここはご夫君がお連れ合いに宛名を書かせるのだな、とか(そういう関係がお好みだったのか、そりゃわたしとはうまくいくはずがなかったわな、とか)。

ロシア料理と寺山修司

ゆうべ『同志少女よ、敵を撃て』を読み終わった勢いで、お昼はロシア料理(神保町、ろしあ亭さん)。

からの渋谷に移動して、音楽劇『海王星』。

寺山修司の未上演の戯曲をPARCO劇場で、となればいやが上にも高まる期待を裏切ることなく、とても充実した舞台だった。
南海岸への出港を待つ人々が集う北海岸の難破船のホテル、という童話めいた舞台に満ちた閉塞感と頽廃の中で、交わってはすぐ離れてしまう純粋な思いの糸の数々が切なかった。
ドレスコーズの志磨遼平さんの音楽は、ノーブルでどこかノスタルジックで、見終わった今でも思わず口ずさんでしまうような魅力にあふれていた。
寺山修司が何を意図して書いたのかは知らないが、間違いなく極上の大衆演劇だった。

主演の山田裕貴さんは、それこそゴーカイブルーのころから大好きな役者さんで、特に最近は『ハコヅメ』の山田刑事の切々と胸を打つ長台詞が見事だった記憶がある。今回も本当に素晴らしかった。そりゃ魔子さんも一瞬で恋に落ちるわと納得のまっすぐな色気が美しかった。ロミジュリバリエーションのようなストーリーの、ロミオ、でもあり、ジュリエット、でもあり。
そして圧倒的だったのはユースケ・サンタマリアさん。彼が登場しただけで空気が変わって、もう目も耳も離せなくなった。舞台で拝見したのは初めてだけど、鳥肌が立って止まらなかった。
トリックスターというか狂言回しで、「そばかす」という女学生(?)が登場するのだけど、何もかも見えているのに、ものごとを掻き回さずにはいられない彼女がとにかく魅力的。演じたのは清水くるみさん。
実力派揃いがすぎる。
どうしてこれまで演じられることがなかったんだろう、と思ったのだけど、この座組が揃うのがまたれていたのかもしれない。

寺山修司の言葉の力に完璧に圧倒された。
頭の芯まで揺さぶられるような酩酊は、どの言葉もそこに配置されるしかないところに、それしかないものとして配置されているからこそ生まれた。言葉の緻密な狙撃によって必然的に引き起こされたものだと思う。

2021/12/24

出勤。がりがり仕事もしつつ、同僚の皆さまともあれこれおしゃべりしつつ。

コロナ期間中、だいたい電気が消えてた向かいのテナントが、ついに今日、からっぽになっていた。

お昼も食べずに仕事してて、さすがに力が出ない、となってスタバでクリスマスブレンド。

終業後、パンとワインを調達して、予約してたケーキを受け取って帰宅。
鉄鍋でマッシュルームとチキンのグラタンを作った。うちのグラタンは鈴木登紀子さんレシピを基本に、いつもホワイトソース手作り(超かんたんだから)。
飴色玉ねぎとマッシュルームで色は濃いめだけど、味つけはやさしくしてますよ。

ケーキもおいしかった。