月別アーカイブ: 2022年11月

帰宅

 夕焼けみたいな朝焼けが空一面に広がっていたのに始まり、昼は春先みたいに生暖かく、夕方は間欠的に強い雨が降ってくるという、なんだか不思議な一日だった。

 今日はラテンなお客様。とても有意義な議論をたくさんしてくださったのに、なぜかむちゃくちゃおもしろくてずっと笑ってしまった。

 握手する機会が増えて思うこと:やっぱりわたしは基本的に体温が高い;および初手に出していい握力の加減がわかってきた(相手の力に合わせて後出しする)。

 近所の事業所のシャッターを閉める音が聞こえてくると、夕方だなという気がする。

 そういった音や子供たちの声も含めて、人の生活音や、鳥や虫の声がすぐそばに聞こえる環境でずっと暮らしてきたから、そうじゃないところに住んだら、きっとすごくさびしいだろうと思う。

 いろんな国の言葉も聞こえてくる。
 夜、近くのアパートのベランダで、ずっと誰かと通話している声が聞こえてくると、内容はわからないながら、少しもの悲しい気持ちになったり、笑い声が聞こえてほっとしたりする。

舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』

 見てきた。
 ハリー石丸幹二さん、ハーマイオニー早霧せいなさん、ロン竪山隼太さん、ドラコ松田慎也さん、アルバス・セブルス藤田悠さん、スコーピウス門田宗大さんの組。

 魔法も素敵だったし、宙乗りディメンターめちゃくちゃ怖かったし、アトラクション的楽しさたっぷり。
 その上、ハリーとアルバス、ドラコとスコーピウス、そしてダンブルドアとハリーの「父子」関係がみっちり掘り下げられてて、ティーンエイジャーの親としても、かつて子供だった大人としても、いろんな感情が引き出される舞台だった。アルバスとスコーピウスの「友情」の描き方には、もしかすると賛否両論あるかもしれないけど、お互いにいちばん大切な人だと言える関係になっていく過程は見ていて清々しかった。みんなスコーピウス大好きでしょ。わたしもです。

 ハリーがいつまで経ってもハリーなのとは対照的に、ドラコはとても大人になっていて、どちらの成長のしかたもおもしろい。わたしが人間としてどちらを目指したいかと言われたらドラコかな。
 
 他の組も見てみたい。

読み返し『斜陽日記』(太田静子)

 鎌倉殿から右大臣実朝を読み返したついでに、太宰をあれこれ読み返していて(中3の夏休みの課題論文は太宰にしたくらい、少女時代にはハマっていた)、その流れで太田静子の斜陽日記も読み返した。

 斜陽は、太田を原作者としてきちんとクレジットしなかったという点で、個人的にはだいぶ許せない気持ちがあったのだが、また読んで、ますますその気持ちが強くなった。太田が彼女の意思で日記を太宰に捧げたことを思うとよけいにやるせない。「人間は恋と革命のために生れて来たのであるのに」は、太宰ではなく、太田の言葉だ。

 斜陽では、主人公のかず子、その道ならぬ恋の相手である上原、そしてかず子の弟である直治と、主立った登場人物のそれぞれに太宰が投影されている。かず子はもちろん太田で、上原は太宰が直接的なモデルだ。太田に弟はいるが、直治は斜陽オリジナルキャラと言ってもいい。太宰は上原を比較的醜く描く一方で、直治には甘いように思える。自分の中の直治的なものを、太宰は抱き締めたかったのだろうと思う。でも、舌の病気になった「お母さま」に対し、ガーゼをリバノール液に浸したものにマスクを着けて寝るという(効果はともあれ)優しい手当を提案したのは、斜陽日記によれば太田であった。それが直治の手柄にされてしまったことで、何か大切なものを奪われたような気がしてしまってつらい。

 女の年齢に関するちょっとした記述の違いも棘のように引っかかる。
 斜陽日記にはこんな一節がある。

 「でも、私は、駄目なのです。恋のこころがなくては。どうしてもだめなのです。私はもう大人なのです。三十三。」
 と、言って、はっとした。女は三十三までは乙女の匂いが残っている。けれども、三十三をこえた女の体には、もう何処にも乙女の匂いは残っていない、という言葉を思い出したのである。外の風景の向うに、海が青く光っていた。

 これが、斜陽だとこうなる。

 「でも、私みたいな女は、やっぱり、恋のこころが無くては、結婚を考えられないのです。私、もう、大人なんですもの。来年は、もう、三十」
 と言って、思わず口を覆いたいような気持がしました。
 三十。女には、二十九までは乙女の匂いが残っている。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。

 太宰のいうフランスの小説がほんとうにあるのかもしれない。閾値を三十三においたのは太田のちょっとした創作が入っているのかもしれない。
 どちらが何を創作したのかはわからないが、この男女の齟齬に表れている年齢の受け止め方の違いがいたたまれない。
 今のわたしは、簡潔で力強い太田の記述の方を愛する。

Fediverseあれこれ

 まだ自分のWebFinger周りを解決できてはいないのだけど、そのためにあれこれ調べていて、分散型のソーシャルプラットフォーム開発の機運が想像以上にあちこちで高まっているのだなと気づいた(いまさら)。
 そもそもBlueSkyだって、ドーシーが率いていたころのTwitter社が主導して始まったプロジェクトだしね[1]ツイッター社主導の分散型SNSプロジェクト「Bluesky」、Zcash開発者をリーダーに任命
 
 WordPressは既に、うまいことプラグインを追加して環境を構築できれば、ActivityPubを採用しているいろんなプラットフォームからフォローしてもらえるし、こちらからフォローすることもできる(Friendsプラグインを使えば、自分だけの統合タイムラインを自分のサイトから見られる)。
 TumblrもActivityPubに対応するようだし、既存のSNSやブログサービスがこれに追随するようなら、分散型ソーシャルネットワークへの流れが加速しておもしろそう。
 今のTwitter社がどれくらいこの流れに興味があるかはわからないけど、もし今の形を続けるようであれば、下手すると陸の孤島になってしまう可能性すらある。現に、Fediverse側からTwitterを見ると、もう既にだいぶ孤立しているように見える。

 数年後のソーシャルネットワークの景色は、どんなふうに変わっているだろうか。

ActivityPub プラグインを追加してみた

 このブログをFediverseに参戦させるべく、ActivityPubプラグインを追加してみた。
 今のところ、わたしのアカウントが他のプラットフォームから追跡できないので、とりあえずこの記事を上げてから後ほど追記します。

(追記1)
 うまくいかないので、Friendsプラグインも試しているところ。

(追記2)
 そもそもWebfingerファイルが自動で追加されないのか。手動で追加したけどやっぱり無理で、アクセスの問題かもしれない。めんどくさそう。あきらめるかも。

(追記3)
 このリダイレクトループをなんとかしないといけないんだよね。https://webfinger.net/lookup/?resource=https%3A%2F%2Fdiary.ihatovo.com%2Fauthor%2Fpollyanna%2F

きんようび

 勤労感謝の日だのサンクスギビングホリデイ(ズ)だので、あれこれ巻き巻きになったり押せ押せになったりして慌ただしい一週間だった。
 今日の締めくくりは海外とのWebミーティングだったけど、楽しかったのでよかった。

 日曜はハリポタ舞台を見に行くのよ。

近況あれこれ

 最近、海外からのお客様(職場)が増えて、お話ししたりお食事したりする機会も多くなった。
 皆さん、きちんとマスクを着けていて、日本に合わせてくれてるのかと思いきや、自国でも自分はマスクを着けているとおっしゃる。たまたまそういう地域(赤か青かでいうと青)の方が多いのだとは思うが、ここ最近のTwitterのゴタゴタに関してもイーロンに批判的だったりも。
 女性のファッションでいいなと思ったのが、シンプルなブラウスやセーターとパンツに、華やかだったり鮮やかな色合いのジャケット、個性的なアクセサリー、というスタイル。着回しが楽で合理的だし、着るのも楽しそう。わたしもこういう感じでいこうかな、とワードローブを整理中。

 自分の試験やら子供の教育費やらで、今年はあまり自分のために物を買わなかったのだが(書籍以外は)、もうすぐ冬のボーナスが入るはずだから、久しぶりにちょっと大きなお買い物をしたい。
 一番ほしいのは新しいiPadで、AirとProのどちらにするか悩んでいる。実はKindle Scribeを注文中なので、それで漫画が読めそうならAirでもいいかな。
 あとは全身脱毛にとても興味がある。やった人に聞くと大変快適らしい。

 ここのところ体重を落とすための生活に慣れて、体力を考慮するとちょっと減らしすぎた気もするので、昨日の休日は久しぶりにがっつり食べたら、おなかがびっくりしていた。
 

Fediverse

 Tumblrが分散型SNS標準プロトコルのActivityPubの採用を発表して、おおっとなっている。

Tumblr、マストドンと接続へ。分散型SNS標準プロトコルを採用し、Twitterからの脱出受け入れ強化(CloseBox) | テクノエッジ TechnoEdge

 ついこないだこんなことを書いたばかりだけど

理想を言えば、ネットで何かを発信しつつ誰かとつながっていたい人が、プラットフォームの盛衰に左右されずに、そのアイデンティティに紐付いた発言ログとつながりの蓄積を保てるとよい。ひとりひとりが個別のインスタンスを維持管理しつつ、他人のインスタンスをフォローし、フォローされ続けることができる感じで。
 マストドンは自鯖管理の手間がかかりすぎるので、もう少し、たとえばせめてWordPressと同じくらいの気軽さでおひとりさまインスタンスを持てるといい。

もう二度と友達を見失いたくないわたしたちのためのfediverse

 意外とその未来も遠くはないんじゃないか。

 Twitterのような中央集権型SNSのいいところ(のひとつ)は、自分は黙って口を開けて待っていれば、情報も怒りも喜びも小ネタもすべて流れ込んできて、何か言いたければ流れ込んできたものをそのまま複製するか、ちょっとそれをいじれば済むことだ。それを好む人が多いだろうとは想像できる。
 自分の中にあるまだ形になっていない思いを、程度はどうあれ、何かしら他人に伝わるような形にするにはちょっとしたハードルがある。そのハードルを最初に越えて発信した人のところに、特にハードルは越えたくなかった/越える力がなかったけど、乗っかるものさえあれば何か言いたかった人たちが集まるのは当然で、その結果、物言う力のなかった人たちの思いが可視化されて大きな社会的ムーブメントすら巻き起こる。
 その意味で、Twitterはこれまですさまじく大きな社会的な役割を果たしてきた。これからも、一定の役割は果たすだろう。

 ただ、いつも乗っかられる側になる人たちはどうだろうか。

 「そうそう、それが言いたかった。よく言ってくれた、ありがとう」と言ってくれる人がいるのは嬉しいが、そういう人たちは、もてはやした相手が少しでも自分の理想と外れたことを言い出すと見放すし、なんなら憎み始めたりする。
 嫉妬している相手の発信をちらちらウォッチして、それを自分が考えたことみたいに披露したりする人や、その相手を否定することを自分の行動の原動力にしたりする人もいる。
 相手が何か言ってくれて初めて自分が言いたかったことを思い出して、それを相手に対して切々とリプライで送りつけてくる人もいる。
乗っかる人は、相手のモチベーションや努力を盗んで心地よさを得られる反面、乗っかられ続ける側は、わりと精神を削られる。
 それに耐えられるキャパシティ(モチベーションや体力や承認欲求)を持っている人たちだけが、インフルエンサーとして残り得るのだろう。
 よかれあしかれ、超弩級の(尖った/自信満々の/自信がなさすぎる/馬耳東風を貫ける)インフルエンサーはこれからもTwitterに残ると思うが、そこまではいかないけどそれなりの影響力を持っていた多くの発信者は、もうわりといいかげん疲れてきている頃合いではないか。

 そういった発信者にとって、少しつながりや注目の密度を下げつつ、言いたいことを言える場所はとても安心できるんじゃないかと思うし、そういう場所が分散型SNSになっていくとしたら、これからのTwitterのプレゼンスも変わっていくかもしれない。