発汗の症状はほとんどなくなった。さすがホメオスタシス。
薬で上流からカスケードごと生体情報伝達を強力に制御するというのも、あながち悪いことでもないのかな、などと考えている。(なんかいろんな変数を無視してよくなりそうで、話が大変シンプル)
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発汗の症状はほとんどなくなった。さすがホメオスタシス。
薬で上流からカスケードごと生体情報伝達を強力に制御するというのも、あながち悪いことでもないのかな、などと考えている。(なんかいろんな変数を無視してよくなりそうで、話が大変シンプル)
今日は、ふわっと汗が出ることがたびたびあって、なるほど、これがホットフラッシュの副作用というやつか、と感心している。
追記:
わりと不快なので、エアコンの設定温度を下げてみたところ、格段に楽になった。体を気持ちいい範囲で動かすのもいいっぽい。
そんなこんなで鉄を補給しつつ、鉄が出ていかないように、GnRHアンタゴニスト製剤(レルミナ)を飲んでいる。
脳下垂体にあるGnRH(性腺刺激ホルモン放出ホルモン)の受容体の働きを止めることで、同じく脳下垂体から出る性腺刺激ホルモンを止めて、その結果、卵巣から出るエストロゲンやプロゲステロンも止める、というおくすり。
月経が止まるので、出血による鉄の喪失が抑えられる上に、エストロゲンで成長する子宮筋腫も小さくできることが見込まれる。私のホルモンはまだ元気にドバドバ出ているようなので、薬で抑えながらなんとか閉経まで逃げ込みましょう、という治療方針。
偽閉経状態になるので、更年期のような症状が出るかもしれません、とのことなのでどきどきしているが、今のところまだこれといった異常は感じられない。もう少し薬を飲み続けたらなにかあるかもしれないので、覚悟はしておこうと思う。
ところで実は、私は修士の学生だったころにGnRHの研究をしていて、論文もあるのであった。自分にGnRHアンタゴニストを投与するのは、なんとなくくすぐったい感じがする。
芥川龍之介の自筆詩集が最近見つかったという。
芥川龍之介の「幻の詩集」発見 自作12編書き記した冊子 – 日本経済新聞
これが一般公開されている企画展「龍之介・犀星のもとに集った詩人 ~「詩のみやこ」から100年~ 」を目当てに、田端文士村記念館に行ってきた(2025年7月5日)。
JR田端駅北口を出て、左手の方にすぐ見える。
なお、館内は写真撮影禁止なので、これから訪れる方は、手帳やメモ帳をもっていくことをおすすめする。
昔、田端に多くの文士や芸術家が住んでいたことは知っていたが、これほどまでとは、と、常設展の年表を見て圧倒された。東京美術学校(今の東京芸術大学)や東京帝国大学(今の東大)が近いのはダテではない。
最初は彫刻家や画家などの芸術家が田端に住んでいて、「ポプラア倶楽部」という親睦機関ができていたらしい。
文士が集まり始めたのは、やはり芥川の転入(大正3年)がきっかけだった。帝大の学生だった芥川は、「芸術が紺絣を着てあるいてゐるやうな気がする」と松岡譲への手紙で報告している。
その後、大正6年に金沢から室生犀星が金沢から上京。田端に住み始めて、やがて芥川との交流が始まる。
皆さんご存じのとおり、犀星には以前から、萩原朔太郎という盟友がいて、大正5年には二人で詩誌『感情』を創刊していた。
この『感情』について、芥川が松岡譲に書いた手紙(大正6年7月12日)が展示されていた。
この頃、萩原朔太郎氏の「感情」を見てゐると大にあ々云ふ小雑誌が羨しくなったよ
朔太郎への犀星の友情は、大正7年に自費出版した『愛の詩集』の「萩原に与へたる詩」が有名だ。これも展示されている。
君だけは知つてくれる
ほんとの私の愛と芸術を
求めて得られないシンセリテイを知つてくれる
君のいふやうに二魂一体だ
・・・
充ち溢れた
なにもかも知りつくした友情
洗ひざらして磨き上げられた僕等
犀星に『愛の詩集』を献本されて感動した芥川は、「愛の詩集に」を犀星に献詩している(草稿の展示あり)。朔太郎は『感情』に「『愛の詩集』に就て」を掲載。
なかよし! でもなんかこう、相関図の矢印の向きと濃淡が気になる! その後の展示もどうしてもそういう目で見てしまう。
大正14年、朔太郎は犀星宛ての手紙で「出来る限り、君のご近所に住みたい」と言って、田端に引っ越してきた。もちろん、君=犀星である。
朔太郎の田端転入を喜んだ芥川は、犀星に「是非あひたい(略)僕の小説を萩原君にも読んで貰らひ、出来るだけ啓発をうけたい」と、朔太郎への熱烈な思いを語っている。その思いは萩原君に直接言うといいのでは、とうずうずする。
ちなみに、朔太郎側から見るとこうだ。
「『君と僕とは、文壇でいちばんよく似た二人の詩人だ。』と、芥川君は常に語つた」
(萩原朔太郎「芥川君との交際について」)
その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。
「室生君と僕との關係より、萩原君と僕との友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」
この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向つて次のやうな皮肉を言つた。
「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」
その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。
(萩原朔太郎「芥川龍之介の死」)
気になる矢印の向きと濃淡は置いておいて、やはり芥川にとっては、詩人としてのアイデンティティが大切だったのだろう。
最近発見された「芥川龍之介 自筆詩集」はこの展示で見ることができる。
製本見本と考えられるらしい冊子で、表紙は薄茶色、罫線も何もない真っ白な紙に、1頁に1つの詩が書かれ、詩の最後に表題が書かれている。
詩集発行を見据えていたのではないかと考察されていて、もっとたくさん数があったら書籍になっていたのかもしれないなと夢想した。
後年、犀星は「芥川龍之介と詩」(昭和9年)の中でこんなことを言っている(展示あり)。
元來芥川君は小説家であるよりも、詩人風な人がらであり、好んで詩人たることを喜んでゐた人かも知れなかつた。詩人的であることは小説家であるよりも私なぞには親しいのである。
とにもかくにも、朔太郎を迎えて田端はにぎやかになった。
この頃田端に萩原朔太郎来り、田端大いに詩的なり
(大正14年、芥川から佐藤春夫宛書簡)
室生犀星 これは何度も書いたことあれば、今さら言を加えへずともよし。只僕を僕とも思はずして、「ほら、芥川龍之介、もう好い加減に猿股をはきかへなさい」とか、「そのステッキはよしなさい」とか、入らざる世話を焼く男は余り外にはあらざらん乎。
(大正14年、芥川龍之介「田端人―わが交遊録―」
イチャイチャたのしそうですね。そして芥川はどれだけ猿股をはき続けていたのか。
「辰っちゃんこ」登場回である。
堀辰雄は学生時代に何度か田端で下宿していて、芥川は自分と共通点の多い堀を「辰っちゃんこ」と呼んでかわいがっていた。
堀辰雄君も僕よりは年少である。が、堀君の作品も凡庸ではない。東京人、坊ちやん、詩人、本好き――それ等の点も僕と共通してゐる。しかし僕のやうに旧時代ではない。僕は「新感覚」に恵まれた諸家の作品を読んでゐる。けれども堀君はかう云ふ諸家に少しも遜色のある作家ではない。
(昭和2年、芥川龍之介「僕の友だち二三人」)
ここでも「詩人」であることが、芥川と堀をつないでいる。
堀辰雄の大きな業績のひとつに、『驢馬』創刊がある。
犀星を中心に集まっていた「驢馬の会」の青年たち、中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄、西沢隆二、宮木喜久雄、平木二六らが中心となって、大正15年に『驢馬』を創刊した。発行所は田端にあった窪川の下宿である。
佐多稲子など、綺羅星のごとき才能が『驢馬』にあつまり、次々と新しい文学が生み出されていった。
それは昭和2年に芥川がこの世を去ってからも続き、やがてプロレタリア文学運動ともつながっていく。
『驢馬』はまさに「詩のみやこ」である田端が生んだ結晶のような雑誌と言えます。
(展示壁面解説)
芥川、朔太郎、犀星の中でもっとも長生きした犀星は、後年になってからも、誠実で愛に溢れた言葉でかつての友人たちを偲んでいる。
私自身の中の萩原よりも、読まれてゐる世界の萩原が、彼の生前よりももつと親しく威張て私を呼びつゞけるのである。
(室生犀星「えらさといふこと」)
ほかにも『黒髪の書』は、老いてなお友を慕う犀星の心に目頭が熱くなる。
ホウレンソウを食べたポパイのスーパーパワーは、貧血が解消された人の実感を表しているんじゃないか。
と思ってしまう程度に、貧血治療のめざましい効果に感動している。
実は先週、血液検査の結果、貧血の数値があまりにもひどいとのことで、すぐ来なさいとお医者様に呼ばれ、鉄剤の点滴も受けてきた。
ヘモグロビンが6(正常値は11.5~15.0)、フェリチンが2(正常値は4.0~87.0)で、普通の人の半分以下の酸素でずっと活動していたらしい。なんてこと。
点滴してもらったお薬は「モノヴァー」といい、日本で製造販売承認されたのは比較的最近(2022年)のようだ。
鉄とデルイソマルトースの複合体(デルイソマルトース第二鉄)を血中に投与し、複合体ごと細胞に鉄を届けて、細胞内で無害な鉄の形にする、というしくみ。毒性の高い遊離鉄の発生が抑えられるので、一度に高い用量の鉄を投与できる。
このバイオアベイラビリティの高そうな薬で、私の場合、500 mgの鉄をいっぺんに投与してもらった。ちまちま経口で鉄剤を摂取するより効くのは当然で、継続して動いていられる時間が一気に伸びた(ただし投与二日後に38.5℃の発熱があった。解熱剤飲んで寝たらすぐ下がったが)。
開発したファーマコスモス社の特許を調べてみると、関連しそうなのはこのあたりかな。
特許第5426010号(特許権存続中。存続期間の延長登録あり)
「安定な鉄オリゴ糖化合物」
特許第4558198号(特許権の存続期間満了)
「鉄欠乏症の予防または治療のための治療組成物の成分として用いる鉄-デキストラン化合物、および前記鉄-デキストラン化合物の製造法」
点滴の鉄剤としては、2019年に製造販売承認された「フェインジェクト」というお薬もある。
こちらは、鉄とカルボキシマルトースの複合体(カルボキシマルトース第二鉄)。開発したビフォー社の特許で関連しそうなのはこのあたりだろうか。
特許第4777653号(特許権存続中。存続期間の延長登録あり)
「水溶性鉄-炭水化物複合体、その製法、及びそれを含有する薬剤」
特許第5225289号(特許権存続中)
「鉄-炭水化物錯体化合物」
特許第5289413号(特許権存続中。存続期間の延長登録あり)
「水溶性鉄-炭水化物複合体、その製法、及びそれを含有する薬剤」
特許第5259700号(年金不納による特許権消滅)
「水溶性鉄-炭水化物誘導体錯体、それらの製造、及びそれらを含有している医薬品」
特許第5060312号(年金不納による特許権消滅)
「鉄(III)錯化合物の用途」
「フェインジェクト」も「モノヴァー」も、鉄と糖の複合体なのだが、「フェインジェクト」は糖がカルボキシマルトースであり、「モノヴァー」は糖がデルイソマルトースであるという大きな違いがある。
鉄と糖の複合体を含む静注用鉄剤としては、以前からデキストラン鉄と呼ばれるものがあったらしい。ただし、デキストランにはアナフィラキシー反応などのリスクがあったことから、それを解決するために、 「フェインジェクト」と「モノヴァー」はそれぞれ違うアプローチを取った(前者はデキストラン不含有とし、後者は低分子量オリゴ糖のデキストランを用いた)という理解。
自分の体メンテ集中期間、貧血治療のほかにもうひとつ大きいイベントに、「余分な歯」を抜くことがあった。
私には余分な歯が2本生えていた。ひとつは文字どおりの「過剰歯」で、左下の第2大臼歯と第1大臼歯の間の内側というヘンなところに顔を出していた。もうひとつはやはり左下の親知らずで、半分埋まっていたもの。
過剰歯については、以前、一度抜いてもらおうとしたのだが、某大学病院で2時間かかっても抜けず、「様子を見ましょう。そのうち根っこが吸収されるかもしれないし」ということで様子を見ていたものだ。
ただ、場所が場所でケアもいよいよ面倒だし、歯医者さんと相談して、抜歯できるかどうかの判断も含めて診察してもらうべく、近所の大学病院に紹介していただいた。
紹介先での診断の結果、やりましょう(抜きましょう)ということになり、さてどうなるかと本番に臨んだのがつい先日。
私の過剰歯は頭が小さいわりに根っこが長く、骨にがっちりしがみついていて大変だったとのことで、1時間くらいかかったものの、ぶじに抜歯成功。その後の経過も順調。長らく舌の左側に触っていた余分な歯がなくなり、口の中が広くなった感じがしてすっきりした。
この勢いで、最後の親知らずも抜歯したのが今日。こちらはものの数分であっさり抜けた。見せてもらったら、これがまあ大きくて、よくぞここまですくすく育ったものだと思った。
長年の懸念事項が解消されてよかった。年取って体力がなくなる前、40代のうちにやっておきたかったのだ。