萩尾望都先生『一度きりの大泉の話』読んだ。
身を切るような独白の悲しみと切なさに、何度も喉が詰まるような思いがした。
竹宮惠子先生の『少年の名はジルベール』と併せて読むと、まるで高村光太郎・智恵子夫妻のようではないかと思った。
芸術の同志がひとつ屋根の下に住むということはほんとうに難しい。
わたしの両親はどちらも音楽家だが、ひとりはプロの演奏家で、ひとりは教師になった。
その間に生まれたわたしが音楽の道に進んでみたいと言ったときには、家の中が修羅場になるからやめろと断念させられた。納得はしていないが、親の気持ちは非常によくわかる[1] … Continue reading
芸術に限らず、同じ分野で同じ仕事をしている者どうしが同じ空間で暮らすことは非常に難しい。
分野:同じ、仕事:別、居住空間:同じ
分野:同じ、仕事:同じ、居住空間:別
分野:別、仕事:同じ、居住空間:同じ
みたいに、どこかの要素をずらして、ようやく平和に息ができるようになる、みたいなところがある。
同じ/近い分野で同じ志を持つ他人どうしの共同生活が、どれだけ繊細で微妙なバランスの上に成り立っていることか。
他人から見たらささいかもしれない場面の数々に、互いに譲れない決定的な選択肢の分岐があって、そこを過ぎるともうどうにも戻れなくなってしまう。
あそこでああしていればよかったのに、などと言う資格のある人はこの世のどこにもいないだろう。
萩尾望都先生と竹宮惠子先生のお二方とも大好きだ、というファンはたくさんいると思うし、わたしもそのひとりだけど、自分の気持ちがやるせないからといって、安易にお二方に仲直りをしてほしいなどと言っても、願ってもいけないと、それだけはわかる。
↑1 | うまくやっている芸術一家はもちろんたくさんある。しかし子供が育てるに値するかどうかの判断はどこも厳しいはずだ。わたしの場合、単にそこまでの能力がない、それができるように育てるほどの価値もないと見限られたのだと思う。そして、わたしがどう感じようがその判断は正しかった。 |
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