学ぶことについて

 少子化傾向にも伴い、リカレント教育とか生涯学習とかに脚光が当たっている昨今、大人になってから「学ぶ」ことの意味と価値についてしばしば考える。最近は、主婦として子供を育てながら大学院で研究していることを表明した女性に、批判と応援が殺到して大騒ぎにもなった[1]専業主婦が大学院に行ったらダメですか? 批判された当事者の思い

 意味があるかないかと言えば、学びの主体となっている人にとっては、それは確実にあるだろう。学びを止める権利のある他人などいるはずもないし、ましてや学びに向かう意欲や営みをおとしめることのできる他人はいない。

 価値はどうか。それも当然、学びの主体となっている人にとってはかけがえのない価値があるはずだ。学んで得たことは誰にも奪うことはできない。その主観的な価値を否定することは誰にもできない。

 ただ「学んでいる」「学び続けている」という営みが、それだけで客観的かつ普遍的な価値を有すると主張しうるかといえば、それは難しいところだろうと思う。客観的かつ普遍的な価値を有するかどうかは、学びの結果として新たに生み出されたものでしか評価され得ないからだ[2]一般的な教育の価値を否定するものではない。できるだけ多数の人たちが学びの機会を得られるべきであることはいうまでもない。

 学問の世界でいうなら、個々の研究者のバックグラウンドはどうあれ、その分野に新しく積み上げたものがあるかないかでしか評価されない[3]経済的価値の話ではない。学問の分野に新しいレンガをひとつ積み上げることができたかどうかという話だ。。こよなく「太い」実家の支援を得て何不自由なく研究に専念してきた研究者の業績も、苦学生が数々の副業と困難の末に生み出した業績も、背後のストーリーは関係なしに評価される。短期的に学閥やコネクションが影響することはあろうとも、なにがしかの形で業績が残されていさえすれば、長期的には歴史の審判を受けて、まっとうな評価を受けていくことになるだろう。

 そうすると、不遇を乗り越えて学びに向かうということは、非常に意味があることではあるけれど、学びに向かったというただそれだけのことをもって、自分の価値を高く評価してくれと他者に要求できることはありえない。他者に価値を認めさせたいのであれば、それはやはりストーリーではなくて、自分が生み出したものに基づかざるを得ない。

 ストーリーだけを売りにするという生き方もあるかもしれないが、それでは早晩、自分が耐えられなくなるのではないか。たとえ耐えられたとしても、そういう生き方に批判を向けてくれる人たちがいない中で生きていくのはつらそうだ。最終的に自分の挑戦が何を生むことができなかったとしても、挑戦したということだけに意味を見いだしてくれる人はいるかもしれない。しかし、そういう人が出てきてくれることを期待して、ただ挑戦したという経歴を残すことだけを目的に生きるのは、甘えであり怠慢であり堕落であろうと思う。

 女性はこの点、非常に狭い綱の上を渡っているようなところがある。
 多くの女性が挑戦し得なかったことに挑戦したという、ただそれだけで、何も生み出さない前にもてはやされたりもする。
 そもそも挑戦することに障害があり、挑戦し始めたら、今度はスポイルされかねない危険が待っている。
 前者の障害を取り除くことについては多くの人たちが取り組んでいるところではあるけれど、後者の危険については自分自身でしか克服することができない。もう少し女性に与えられる機会が増えるまでは、この綱の上をどうにか渡っていかなければならない。

References
1専業主婦が大学院に行ったらダメですか? 批判された当事者の思い
2一般的な教育の価値を否定するものではない。できるだけ多数の人たちが学びの機会を得られるべきであることはいうまでもない。
3経済的価値の話ではない。学問の分野に新しいレンガをひとつ積み上げることができたかどうかという話だ。