変質する憧憬

 文藝別冊の向田邦子ムックをようやく手に入れたので読んでいる。
向田邦子 増補新版 :向田 邦子 | 河出書房新社

 学生の頃から向田邦子さんが大好きで繰り返し読んでいたが、最近は少しごぶさただった。
 このムックで久しぶりに向田さんと再会して、ああ、やっぱり素敵だ、大好きだ、と思うと共に、その気持ちが、昔のような手放しの憧憬ではなくなっていることにも気づいた。
 もちろん、わたしには到底及びもつかない鋭い洞察力、豊かな人間愛、そして見事な言葉選びと文章には、相も変わらず感嘆する。でも、もうそれは、かつてのような全肯定の憧憬ではない。わたしはその道を選ばないし選びたくないと思うこともあるし、だからこそ、その道を選んだ向田さんに全力で拍手を送って、できることなら抱きしめたいとすら思うことがある。はなはだ生意気にも少し、ほんの少しだけ、背丈が近づいたような親しみをおぼえるようになっている。
 一度もリアルにお見かけしたことも、お話ししたこともなく、向田さんのお書きになったものをわたしが一方的に読んでいるだけ、という関係なのに(関係とすら呼べないかもしれない)、過去にいて変わらない向田さんに対するわたしの心が変わっていく。不思議なものだ。

 インターネットが発達した今、人々は昔に比べて凄まじい量のテキストを日々読んでいて、テキスト越しに、めまぐるしく他人を好きになったり嫌いになったりしている。SNSで、特定のアカウントに入れ込んでは冷め、また別なアカウントに入れ込んでは冷め、を繰り返している人も見かける。有名人でもなんでもないわたしでさえ、ネット上で、こちらがとまどうほどの好意や憧れの気持ちのようなものを示してもらった後、何かの拍子に(あるいは次第に)冷められてしまった、みたいな経験がないとは言えない。
 一方で、10年以上、下手すると20年以上のつきあいになる人たちもたくさんいる。わりと盲目的な「好き」と、その反動で憎しみに近いような「嫌い」の両方を表すことに躊躇がないタイプの人とはおつきあいが長く続かない……かというと、意外とそうでもなかったりするところがおもしろい。つきあいが長ければ、わたしのダメなところもイヤなところもさんざん見てきているはずなのに、それでもまだ見放さないでいてくれるのは、本当にありがたいことだと思う。
 自分にそれほど自信があるタイプではないので、憧憬の対象となるより、親愛の対象としてもらえる方がよほど嬉しい。

 あとどれくらいわたしが生きられるかはわからないが、生きているうちに、少しでも、向田さんに近づけるかな。近づけるような生き方をしたい。

 今日の昼ごはんは、鶏ひき肉と豆腐のハンバーグ、餃子と小松菜のスープ。
 夜はピザ!

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