ハァーア

吉幾三さんの『バイオハザード ヴィレッジ 公式イメージソング』。
「理性が無ェ 正気じゃねェ 人かどうかもわからねェ」
はずるすぎでは。
子供と見て死ぬほど笑った。

昨日(というか金曜の夜)は日付が変わるまで仕事して、今日は家事等々。
日曜も仕事しないと間に合わない。

25日から3回目の緊急事態宣言。
今、この国に欠けているのは長期的な視野に立った議論ではないかと思う。
感染拡大を抑え込むべきだと考える人と、かかる人はかかってもしかたないと考える人との分断がより深くなっている気がする。

去年前半は、みんなでステイホームがんばろう、というなんとはなしの連帯感がある程度あった。
先が見えなくなってしまった今、もはやそういうものはない。
ステイホームの必要性を主張すれば経済の敵、大人を在宅させるための手段としての休校措置を批判すれば公衆衛生の敵、と、議論が先鋭化してしまっていて、市民の気持ちがどんどんバラバラになっていってしまっている。
皆クタクタなのだと思う。

科学だけに基づいて考えるなら、

・新型コロナウイルスは、十分な免疫のないヒトからヒトに感染して増える
・ヒトとヒトとの接触機会を減らさない限り、ウイルスは増え続ける
・ウイルスが増えるときが、遺伝子変異のチャンス
・ウイルスが増える機会を温存している限り、今いる変異株が増える(そしてさらに変異する)可能性、まったく新しい変異株が生まれる可能性は常にある(というかかなり高い)
・短期間にたくさんの人に一気にワクチンを打てないなら、ヒトとヒトとの接触機会を厳しく減らすしかない

以外の結論にはたどりつきそうにない。

日本では、迅速かつ大規模なワクチン接種は無理そうだ。となれば、前回の緊急事態宣言解除程度のユルい基準を目標にしていたら、さらに何度も緊急事態宣言おかわりをしないといけなくなることは火を見るより明らかだ。
それでいいというのが大方の意見ならばいいのだが、何をもってそれでいいと判断できるのかは知りたい。

「効果的な対応策に的を絞って」「そのほかの人たちはできるだけ日常生活を維持する」というこれまでの日本の方針は、結局、「我慢しろと名指された人」と「名指されてはいないけど我慢と犠牲を強いられた人」と「それ以外の人」との間に深い溝を作ってしまった。

今は一気にウイルスを叩く必要があるとそれなりの数の市民が納得できれば、みんなで我慢してウイルスと戦おう、その代わりみんなに薄く広く補償しよう、という線で議論が進むかもしれない(もちろんその逆もある)。
しかし、そもそも、(ニアリー)ゼロコロナを目指すのかウィズコロナを維持するのか、そのあたりの根本的な課題から、政府も市民もずっと目を逸らしているように思えてしかたない。
皆が身近なフォロワー/フォロイーの目を気にして、わきまえて正しく怖れてさえいればいいと本質的な議論を避けているうちに、どんどん大変なことになりそうだ。

録画でSONGS筒美京平さんスペシャルを見た。
JUJUさんがカバーした『ドラマティック・レイン』があまりに素敵で衝撃を受けた。

わたし「正直、昔は、おじさんはこういう歌が好きなのねー、くらいで全然いいと思わなかったけど、これはいいね。JUJUさんはすごいね」
こども「というか、単におじさんに近づいたのでは……?」
わたし「……♪ハァーア 慈悲も無ェ 情けも無ェ」

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