立花隆さんのこと

 4月30日に立花隆さんが亡くなった。立花さんは、わたしにとって大切な恩師である。

 最初の(書籍をとおしての)出会いは高校生のころ。利根川進先生へのインタビューをまとめた『精神と物質』である。分子生物学のおもしろさに初めて触れたのがこの本だった。
 東大教養学部(駒場)の学生になり、応用倫理学の講義「人間の現在」[1]元ゼミ生が語る、立花隆の「伝説の東大講義」をいま読み直す意味( 緑 慎也) | 現代新書 | … Continue readingで初めて、本物の立花さんと出会った。価値観と好奇心を根底から揺さぶられる経験に衝撃を受け、さらに『調べて書く』と題した立花ゼミにも参加した。

 写真は、立花ゼミの企画を書籍にしたもので、わたしが取材してまとめた文章も収録されている[2]既に絶版になっているが、新潮社からも刊行された。
。その文章は、後に、立花さんの推薦で、駒場の優秀論文集にも収録された。完成稿とするまでに、立花さんに直接赤を入れていただいた原稿は、今でもわたしの宝物である。
 
 立花さんの事務所(通称「猫ビル」)で、資料収集等のアルバイトをした夏のことは一生忘れないだろう。暇さえあれば猫ビルの膨大な蔵書に読みふける毎日で、優秀な働き手とはとても言えなかったはずだが、それでも、立花さんは柔和な目でにこにこしながら、わたしを適当に放牧してくれていた。
 若者が嫌いだとは言いつつも、若者と語り合い、若者を育てることに積極的な人だった。
 わたしのように育ててもらった学生はたくさんいるはずである。

 あのころ、自分が書いたものを立花さんに認めてもらったことが嬉しくて、物を書く道に進もうかとかなり悩み、その後も悩み続けた。なんなら今でも悩んでいる。
 学生のころは、自分には何もない、自分はからっぽなのだ、何も専門がなければ早晩書くことがなくなってしまうのではないか、という不安に常にさいなまれていた。青年期特有の自己評価の低さが空回りしていたのだと思う。
 そして、たとえば宮沢賢治のように、たとえば北杜夫のように、理系のバックグラウンドのある物書きになりたくて、理学部に進んだ。
 そのまま理系のキャリアをなんとかつないで生きているが、その選択がよかったのか悪かったのかはわからない。

 卒業後、ゼミの同窓会でお目に掛かったとき、立花さんは「あなたは物を書く道に進むと思っていた。あれだけ力があるのだから」と言ってくれた。そのとき、照れ笑いしながらモゴモゴとごまかすことしかできなかった自分を、今でもふがいなく思う。

 研究者としてのトレーニングを積み、曲がりなりにも成長していくにつれて、立花さんの書くものとは意見を異にすることも次第に増えてきた。
 また、立花さんがかなりバッシングを受けていた時期には、「立花ゼミの経験はあまり口にしない方がいいよ」とわたしに忠告する友人まで出てきた。
 しかし、そんなことはどうでもいいと言い切れるほど、わたしは立花さんに大切なことの数々を教えてもらった。立花さんに教えられた、人類が築き上げてきた知的な営みの大きさ、深さ、おもしろさ、そしてそれらとの向き合い方は、今でもわたしの根幹をなしている。
 だから、これからも、立花さんはわたしの恩師であると言い続けようと思う。

 「先生」と呼ばれることを好んでいた記憶はないので、立花先生とは呼ばない。
 立花さん、わたしの心に決して消えない知的好奇心の火を灯してくれて、ありがとうございました。
 自信を失いかけたとき、寄り縋る杖となるような言葉を残してくれて、ありがとうございました。
 どうぞゆっくりとお休みください。

References
1元ゼミ生が語る、立花隆の「伝説の東大講義」をいま読み直す意味( 緑 慎也) | 現代新書 | 講談社(1/4)
応用倫理学の単位はその前に取っていたため、本来なら履修できないはずのところ、正式に(?)もぐらせてくださいと直訴する書面を書いた記憶がある。
2既に絶版になっているが、新潮社からも刊行された。