読んだものとか見たものとか

  • 田端文士村記念館に行ってきた

     芥川龍之介の自筆詩集が最近見つかったという。

    芥川龍之介の「幻の詩集」発見 自作12編書き記した冊子 – 日本経済新聞

     これが一般公開されている企画展「龍之介・犀星のもとに集った詩人 ~「詩のみやこ」から100年~ 」を目当てに、田端文士村記念館に行ってきた(2025年7月5日)。

     JR田端駅北口を出て、左手の方にすぐ見える。

     なお、館内は写真撮影禁止なので、これから訪れる方は、手帳やメモ帳をもっていくことをおすすめする。

     昔、田端に多くの文士や芸術家が住んでいたことは知っていたが、これほどまでとは、と、常設展の年表を見て圧倒された。東京美術学校(今の東京芸術大学)や東京帝国大学(今の東大)が近いのはダテではない。

     最初は彫刻家や画家などの芸術家が田端に住んでいて、「ポプラア倶楽部」という親睦機関ができていたらしい。

    企画展第1章
    田端に集う文士たち―そして「詩のみやこ」へ

     文士が集まり始めたのは、やはり芥川の転入(大正3年)がきっかけだった。帝大の学生だった芥川は、「芸術が紺絣を着てあるいてゐるやうな気がする」と松岡譲への手紙で報告している。

     その後、大正6年に金沢から室生犀星が金沢から上京。田端に住み始めて、やがて芥川との交流が始まる。

    企画展第2章
    口語自由詩の夜明け―『感情』と二人の詩人―

     皆さんご存じのとおり、犀星には以前から、萩原朔太郎という盟友がいて、大正5年には二人で詩誌『感情』を創刊していた。
     この『感情』について、芥川が松岡譲に書いた手紙(大正6年7月12日)が展示されていた。

    この頃、萩原朔太郎氏の「感情」を見てゐると大にあ々云ふ小雑誌が羨しくなったよ

     朔太郎への犀星の友情は、大正7年に自費出版した『愛の詩集』の「萩原に与へたる詩」が有名だ。これも展示されている。

    君だけは知つてくれる
    ほんとの私の愛と芸術を
    求めて得られないシンセリテイを知つてくれる
    君のいふやうに二魂一体だ
    ・・・
    充ち溢れた
    なにもかも知りつくした友情
    洗ひざらして磨き上げられた僕等

    企画展第3章-1
    詩人としての龍之介―犀星・朔太郎との共鳴―

     犀星に『愛の詩集』を献本されて感動した芥川は、「愛の詩集に」を犀星に献詩している(草稿の展示あり)。朔太郎は『感情』に「『愛の詩集』に就て」を掲載。

     なかよし! でもなんかこう、相関図の矢印の向きと濃淡が気になる! その後の展示もどうしてもそういう目で見てしまう。

     大正14年、朔太郎は犀星宛ての手紙で「出来る限り、君のご近所に住みたい」と言って、田端に引っ越してきた。もちろん、君=犀星である。

     朔太郎の田端転入を喜んだ芥川は、犀星に「是非あひたい(略)僕の小説を萩原君にも読んで貰らひ、出来るだけ啓発をうけたい」と、朔太郎への熱烈な思いを語っている。その思いは萩原君に直接言うといいのでは、とうずうずする。

     ちなみに、朔太郎側から見るとこうだ。

    「『君と僕とは、文壇でいちばんよく似た二人の詩人だ。』と、芥川君は常に語つた」
    (萩原朔太郎「芥川君との交際について」)

    その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。
    「室生君と僕との關係より、萩原君と僕との友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」
     この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向つて次のやうな皮肉を言つた。
    「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」
     その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。
    (萩原朔太郎「芥川龍之介の死」)

     気になる矢印の向きと濃淡は置いておいて、やはり芥川にとっては、詩人としてのアイデンティティが大切だったのだろう。

     最近発見された「芥川龍之介 自筆詩集」はこの展示で見ることができる。
     製本見本と考えられるらしい冊子で、表紙は薄茶色、罫線も何もない真っ白な紙に、1頁に1つの詩が書かれ、詩の最後に表題が書かれている。
     詩集発行を見据えていたのではないかと考察されていて、もっとたくさん数があったら書籍になっていたのかもしれないなと夢想した。

     後年、犀星は「芥川龍之介と詩」(昭和9年)の中でこんなことを言っている(展示あり)。

    元來芥川君は小説家であるよりも、詩人風な人がらであり、好んで詩人たることを喜んでゐた人かも知れなかつた。詩人的であることは小説家であるよりも私なぞには親しいのである。

     とにもかくにも、朔太郎を迎えて田端はにぎやかになった。

    この頃田端に萩原朔太郎来り、田端大いに詩的なり
    (大正14年、芥川から佐藤春夫宛書簡)

     室生犀星 これは何度も書いたことあれば、今さら言を加えへずともよし。只僕を僕とも思はずして、「ほら、芥川龍之介、もう好い加減に猿股をはきかへなさい」とか、「そのステッキはよしなさい」とか、入らざる世話を焼く男は余り外にはあらざらん乎。
    (大正14年、芥川龍之介「田端人―わが交遊録―」

     イチャイチャたのしそうですね。そして芥川はどれだけ猿股をはき続けていたのか。

    企画展第3章-2
    師としての龍之介 ―堀辰雄の文学的出発点―

     「辰っちゃんこ」登場回である。

     堀辰雄は学生時代に何度か田端で下宿していて、芥川は自分と共通点の多い堀を「辰っちゃんこ」と呼んでかわいがっていた。

    堀辰雄君も僕よりは年少である。が、堀君の作品も凡庸ではない。東京人、坊ちやん、詩人、本好き――それ等の点も僕と共通してゐる。しかし僕のやうに旧時代ではない。僕は「新感覚」に恵まれた諸家の作品を読んでゐる。けれども堀君はかう云ふ諸家に少しも遜色のある作家ではない。
    (昭和2年、芥川龍之介「僕の友だち二三人」)

     ここでも「詩人」であることが、芥川と堀をつないでいる。

     堀辰雄の大きな業績のひとつに、『驢馬』創刊がある。

    企画展第4章
    詩誌『驢馬』創刊 ―「詩のみやこ」となった田端―

     犀星を中心に集まっていた「驢馬の会」の青年たち、中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄、西沢隆二、宮木喜久雄、平木二六らが中心となって、大正15年に『驢馬』を創刊した。発行所は田端にあった窪川の下宿である。

     佐多稲子など、綺羅星のごとき才能が『驢馬』にあつまり、次々と新しい文学が生み出されていった。

     それは昭和2年に芥川がこの世を去ってからも続き、やがてプロレタリア文学運動ともつながっていく。

     『驢馬』はまさに「詩のみやこ」である田端が生んだ結晶のような雑誌と言えます。
    (展示壁面解説)

     芥川、朔太郎、犀星の中でもっとも長生きした犀星は、後年になってからも、誠実で愛に溢れた言葉でかつての友人たちを偲んでいる。

    私自身の中の萩原よりも、読まれてゐる世界の萩原が、彼の生前よりももつと親しく威張て私を呼びつゞけるのである。
    (室生犀星「えらさといふこと」)

     ほかにも『黒髪の書』は、老いてなお友を慕う犀星の心に目頭が熱くなる。

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  • 映画『鬼滅の刃 無限城編第一章 猗窩座再来』みてきた(ネタバレ)

     昨日、『スーパーマン』に続いて最新劇場版鬼滅も見てきたよ。ネタバレあり感想メモです。

    ・無限城の、圧倒的かつ絶望的な広さと能力を伝えてくれる映像がすごかった。これ、もう都市じゃない? と思えるほど。鳴女はどうやってこれを把握して操ってるの。上弦の肆を受け継いだ者、怖。ある程度はその場にいる鬼の意思をオートで反映するようにはなっているのだろうが。

    ・今回避けられないのは、童磨と胡蝶しのぶの決戦。どうなるかわかっていても(わかっているから)見るのがつらくなるだろうと思っていたが、しのぶの覚悟と力の大きさに、甘ったるい同情や切なさは消し飛んだ。しのぶが何を考え、どう行動しているのかを緻密に、大きくクローズアップして描いてくれていたからだと思う。早見沙織さんのギリギリまで抑えた演技と共に、しのぶを、押しも押されもしない「柱」として表現してくれたことが嬉しかった。

    ・童磨は本当に本当に好きになれない鬼だが、その底知れないおそろしさといやらしさを演じた宮野真守さんこそ底知れない。カナヲ・伊之助との決戦も楽しみ。そこに必ず存在する、強く大きいしのぶの遺志と共に。

    ・16巻後半から18巻後半くらいまでという大ボリュームを一つの映画にしているのに、原作に忠実な上に、さらに補われたであろうシーンの効果が大きい。

    ・たとえばしのぶの死を鎹烏から伝えられてもなお、炭治郎と義勇が走り続けるシーンがある。そこで炭治郎が、突然開いた床の穴に落ちかけるのだが、映画では炭治郎が美しい技を繰り出して抜け出す。気を抜くな、と義勇に言われるまでもなく、炭治郎の心が折れていないこと、心を燃やし続けていることが一瞬で伝わる。アニメーションならではだと思った。

    ・珠世さんが必死で押さえ込んでいる、無惨が回復中の「肉の繭」の不気味なパワーの強大さが強調されたのも、身震いするような表現だった。

    ・善逸がどれだけ「壱ノ型」を極めていたかも、獪岳戦で鮮烈に表現されていた。斬撃の軌道の速さと美しさは圧倒的な説得力があった。

    ・そして! そして猗窩座です! リミッターを外したかのような石田彰さんの凄まじい演技と相まって、これを死闘と言わずして何をそう言うのか、という迫力。瞬きするのも惜しいくらい。

    ・戦闘シーンだけでも十分すぎるほど十分なのに、狛治時代まですべて描いてくれるなんて。いやもちろんそれを描かなければこの戦いは終わらないのだが。

    ・今の、少し低く太くなった石田彰さんの声で繊細に演じられる少年狛治が本当によかった。泣く恋雪に、少し片眉を下げて戸惑う狛治の表情が愛おしい。

    ・主にアニメを演じている声優さんが、アニメでおそらく期待されている「その人っぽさ」を消して臨む外国映画の吹き替えが私は好きで、その最たる存在が中村悠一さんなのだが、中村さんが演じた素山慶蔵(猗窩座の師匠)がまさにこれで最高だった。

    ・きわめて細かいことなのだが、頸を切られた猗窩座にさらに向かっていこうとした炭治郎の手から、刀がすっぽ抜けるシーンがある。映画ではここで、「……すっぽ抜けた」と義勇に言わせるのだが、これがものすごく義勇らしくてよかった。

    ・猗窩座の最期、「もういい、やめろ、再生するな」と猗窩座が(猗窩座の中の狛治が)自分に抵抗するシーンでは、猗窩座が歩み去りながら自分の腕の肉をちぎり取る。これも原作にはなかったカットだと思うが、切なさとつらさが見ている私の心もちぎり取るようだった。

    ・もう一回見たいけど、見るための体力と精神力を回復しないといけない。

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  • 映画『スーパーマン』みてきた(ネタバレ)

     参院選の投票を済ませて、『スーパーマン』と『鬼滅の刃 無限城編第一章 猗窩座再来』を見てきた。以下、『スーパーマン』についてのネタバレ感想メモ。

    ・以前予告編を見たときの印象で、スーパーマンがヤムチャみたいになるやつでしょー、とかぼんやり思っていて悪かった。すごくよかった。

    ・こんなスーパーマン絶対モテるに決まっている。この価値観多様化時代に、よくぞ「誰もが大好きになれる憧れのヒーロー」を描き切ったものだと思う。

    ・でも私ミスター・テリフィックがかなり好き。

    ・と思ったけど、ラストシーン(ED前)見たら、え、それしてもらえるなら私もスーパーマンの彼女になりたい、と思い直した。

    ・スーパーマンの “I’m as human as anyone. I love, I get scared.” は名台詞だと思うし、ルーサーの “My envy is a calling. It is the sole hope for humanity.” も名台詞だと思う。1A! 1A!

    ・スーパーマンのテーマを惜しみなく、あちこちでこれでもかと聞かせてくれるの嬉しかった。あれはアガる。

    ・イブ、最初はまたブロンド白人美女をおバカに描くのかよ、まさかな、と思っていたらちゃんとまさかでよかった。イブ好きー。あのド派手な「E」のじゃらじゃらピアス含めて好き。ジミーわかってあげてー。

    ・怪獣と戦うとこ、ゴジラみたいで楽しかった。ジャスティス・ギャング登場でメトロポリスの群衆が大喜びしてて、えっ、これを……? と思ったけど、先を見たら、確かにこれは愛されギャング。

    ・コミックス版詳しくないので、わかるともっとおもしろいんだろうなと思った。

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  • 星新一『祖父・小金井良精の記』を読んだ

     きっかけは、2025年6月11日の毎日新聞記事

    遺骨返還の東大は「最も差別的」 ハワイ先住民が耳を疑った言葉 | 毎日新聞

     著名な解剖学者・人類学者である小金井良精(1859~1944)らがかつて収集したハワイ先住民の遺骨4体の返還について、東大の対応がとても失礼で差別的だった、とハワイ先住民の支援団体代表が述べている。

     人類学の黎明期には、小金井を含めて世界の学者たちがこぞって先住民族の遺骨を盗掘し、交換してきたという歴史的経緯がある。小金井を有名にしたのはアイヌの人骨研究だが、その基になった人骨も盗掘したものだった。

     現代では、遺骨の調査研究の倫理指針が整備されつつあるが、日本の人類学は世界の潮流に逆らっているという指摘がある1。何より、毎日新聞の記事でも指摘されているとおり、遺骨の持ち去りは当時でも非難される行為だった。

     小金井良精とはどういう人だったのか。その孫で大御所SF作家の星新一は、祖父をどう見ていたのか。それが知りたくて、『祖父・小金井良精の記』を手に取った。

     結論として、星新一は、良精の行為について倫理的な批判を一切行っていない。この書籍が出版されたのは1974年のことであり、また、星新一が祖父に非常にかわいがられて育ったことを考えれば、それはそういうものであろうと思う。しかし、子供のころ彼のショートショートを夢中で読んで育った私の勝手な思いとしては、残念だった。

     『祖父・小金井良精の記』は、おおまかなエピソードごとに、良精の日記や、関連する人物の書籍・談話などを引用しつつ書かれているため、年代もあちこちに飛び、どうしても散漫な印象を受ける。あのショートショートの切れ味を期待して読むとがっかりするかもしれない。

     しかし、個々のエピソードについてはさすがのストーリーテリングでおもしろく読めるし、なにより義兄の森林太郎(森鴎外)や師事したベルツを始めとして登場人物が絢爛豪華なので、読み通すのに苦はなかった。

     幕末、長岡藩の武士の子として育ち、戊辰戦争時には流浪して困苦を極めた挙句、明治5年、満13歳で医学を志して第一大学区医学校に入学。からのドイツ留学あたりは、この時代の若者たちの青雲の志が眩しく、胸が躍る。

    学問はそれだけで存在しているのでなく、それを発生させ育てた土壌があるのだと気づく。・・・(中略)・・・ひとつの専門分野を日本に持ち帰ろうとしても、それは切った木の枝にすぎない。死んだ標本である。故国に持ち帰り、移植し、将来にむかって育ちつづけさせるためには、根元のまわりの土を、できるだけたくさんつけておかなければならないのだ。

     生物学的側面からみた学問・研究に関する記述は、星新一自身が東大農学部を卒業し、大学院前期を修了した理系の人なので、専門的になってもかゆいところに手が届くおもしろさがある。

     良精のアイヌ研究については、良精自身が書いた「アイノの人類学的調査の思い出――四八年前の思い出」の要約としているが、良精の日記も参照して構成していると思われる。

     ヘビを嫌うアイヌの老婆を同行者が呼びとめ、ヘビの話をしてからかっているうちに発作が起こった話などが、まったく批判もなく紹介されていて、このあたりは読んでいて極めて不快だった。また、盗掘の詳細についてはまったく触れられていない。日記には書いてあったはずだが。

     書籍全体を通して、良精自身はアイヌに深い親近感と愛情を持っていた人物として描かれており、それはそうなのだろうと思うが、和人と対等に尊重されるべき民族とみている節はなかった。それは台湾やそのほかの国の先住民たちに対しても同じであり、星新一もそのような見方を共有しているように思えた。

     そのほかに印象に残ったことは大きく分けて3つある。

     まず、この時代、とにかく人が死ぬ。病気で、戦争で、あるいは人生を苦にして、どんどん人が死ぬ。良精の人生に後々も関わってくる重要人物なのだろうな、と思った人でも、次のページではもう亡くなっていたりする。
     漫画『ゴールデンカムイ』で、土方歳三が「この時代に老いぼれを見たら『生き残り』と思え」と言っているが、まさにそのとおりだと思った。

     2番目は、良精による昭和天皇に対する御前講演のことだ。
     昭和2年、良精は日本の先住民族について昭和天皇に講義をしており、昭和天皇はそれに対して「日本民族なるものは、どこから来たのか」などと詳しく質問をしている。……えっ、昭和天皇、いろいろ科学的に知ってたんじゃん? どういう気持ちでこの後、現人神として戦争に臨んだんです? と思わざるを得なかった。

     最後、しみじみと心に残ったのは、良精の妻の喜美子のことだ。優れた歌人・随筆家であったことはぼんやり知っていたが、きちんとその作品を読んだことはなかった。それが、『祖父・小金井良精の記』にはたくさん引用されている。優れてこまやかな観察眼と愛情に溢れていながら、てらったところのない歌や随想で、こんなふうに書けたらと心から憧れるものだった。

    1. 持ち去られたアイヌの遺骨が子孫に返還されない 「一刻も早く土に」を阻む背景とは:東京新聞デジタル ↩︎
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  • 『松本清張の女たち』 (酒井順子)読んだ

     Mastodonで吉川浩満さんが紹介されていて、こんなの絶対おもしろいに決まってる! と思って即買いした。

     

     『松本清張の女たち』 酒井順子 | 新潮社

     松本清張といえば、色とりどりの女性主人公が魅力的な作品が数多くあるが、酒井順子は、たとえば主婦向けの「婦人倶楽部」、働く女性向けの「女性自身」、社会派の「婦人公論」など、掲載誌の性質によって女性主人公のキャラクターや生き方が描き分けられていることを看破した。

     そして、膨大な清張作品を縦横無尽に読み込み、「実は清張は、推理小説界において男女の機会均等実現に挑戦した人なのではないか。だからこそその作品は、男女を問わず人気を博したのではないか」という仮説の検証に挑んでいる。おもしろくないわけがない。

     清張作品はそれなりに読んできたつもりだったが、知らない作品もたくさんあった。「あれもこれも今すぐ読みたい!」という気持ちにさせられるブックガイドとしても秀逸だと思う。

     あまり関係ないのだが、酒井さんは「……のであり、」という接続が好きなのだなあということに初めて気づいた(93箇所あった)。カイジシリーズの「とどのつまり」のようなものかもしれない。

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  • 雨の日の神社

     あたりが真っ白になるほどの大雨が降ったり止んだり、止んだり降ったりの中、ふだん歩かない仲町のあたりに所用で出かけたら、古い神社を見つけた。

    轡神社|見る|ぶらり、いたばし 板橋区観光協会

    江戸時代からあるという、ずいぶんと由緒のある神社だった。ヤマトタケルは百日咳にご利益がある神だったのか。知らなかった。
    折しも日本では百日咳が猛威を振るっている。

    「百日咳」今年の累計感染者数3万人超え 過去最多…2024年の約8倍 乳児かかった場合は重症化し死亡するおそれ|FNNプライムオンライン

    流行が収まりますように。

  • 「月夜の夏目」と「星めぐりの歌」

     アニメ『夏目友人帳 漆』第8話は、「月夜の夏目」だった。主人公の夏目貴志と友人の西村悟の友情の機微を描く、原作でも大好きなエピソードだ。

     とあるきっかけから、夜ごと西村を訪れるようになる「夏目」が鼻唄を歌うシーンがある。原作では何の歌か明らかにされていないのだが、アニメでは、宮沢賢治の「星めぐりの歌」が当てられていた。BGMでも「星めぐりの歌」のバリエーションが終始優しく寄り添っていて、それがとても美しかった。

    あかいめだまのさそり
    ひろげた鷲のつばさ
    あをいめだまの小いぬ
    ひかりのへびのとぐろ
    オリオンは高くうたひ
    つゆとしもとをおとす

    アンドロメダのくもは
    さかなのくちのかたち
    大ぐまのあしをきたに
    五つのばしたところ
    小熊のひたひのうへは
    そらのめぐりのめあて

    「星めぐりの歌」(『宮沢賢治全集 3』 ちくま文庫)

     この歌は本来、「ひろげた (お)鷲のつばさ」「ひかりの (お)へびのとぐろ」「さかなの (お)くちのかたち」のように、はっきりと「お」を入れて賢治さんは歌っていたのだと、昔、長岡輝子さんの朗読会で教わったことがある。長岡輝子さんは、賢治と同時代に同じ盛岡に暮らしていたことがあり、賢治作品の朗読を続けていた俳優である。
     そして、今回のアニメエピソードでも、「夏目」役の神谷浩史さんは、しっかり「お」を入れて歌っていらしたのだ。

     さりげない演出だが、それだけでも、夏目の姿を借りて、かりそめ西村の前に現れた妖に、かつてこの歌を「よく唄ってくれてた」「頭をなでてくれた」その人の姿が生き生きと浮かび上がってくる。妖がその人と会えなくなってから過ぎた年月と共に。

     ところで、『夏目友人帳』の別のエピソードで、はっきり「星めぐりの歌」が出てくるものがあったと記憶しているのだが、すぐに思い出せない。読み返して思い出したら追記しようと思う。

  • 中国旅行記(杭州・上海)

     中国の杭州で開催されたAIPPI年次総会に行ってきました。

     会議やミーティングの内容については、業務上知り得たことなのでここには書きません。貴重な経験をたくさんさせていただいたので、パワーアップしたわたしと我が勤務先にお仕事いただければ、経験を生かしたお仕事ができると思います。

     ここでは、初めての中国訪問の感想など。

    準備編
     金盾対策で、VPN対応のWiFiを日本で借りて持っていきました。現地空港で飛んでるWiFIを見る限り、周りの旅行客は、グローバルWiFiか「イモトのWiFi」(エクスコムグローバル)がほとんど。わたしは後者を借り、SNSもGoogleも、何の問題もなく使えました。自分のiPhoneとPCを朝から夜までつなぎっぱなしにしていても、WiFiの充電は半分以上残っていた感じで、モバイルバッテリーは使いませんでした。

     中国ではほぼ現金が使えず、オンライン決済(モバイル決済)の手段が必須とのことだったので、AlipayとWeChat Payのアプリを入れ、それぞれ違うクレジットカードを登録しておきました。

     今のところ、中国への渡航にはビザが必要です。ビザの申請についてはこちら→中国ビザ申請してみた – Going Pollyanna

    初日~移動編~
     羽田から上海虹橋空港、地下鉄で高鉄駅(上海虹橋駅)、からの高速鉄道(高鉄)で杭州に行きました。

     
     地下鉄の切符を買うとき、さっそく噂のモバイル決済にトライ。タッチパネルの路線図で目的の駅を選び(漢字文化圏ありがたい)、切符の枚数を入力して、アプリで決済するだけ。ポトン、ポトン、と切符が落ちてきたときは、同行者と思わず歓声を上げてしまいました。

     高速鉄道はまるで新幹線で、とても快適でした。スナックと飲み物のサービスがあってびっくり。

    初日~ホテル・会場到着編

     杭州、未来都市なんじゃが~?!

     走ってる車はぜんぶ電気自動車だし、未来感がすごい。
     2016年のG20杭州サミット開催を機に、急速に発展した地域とのことです。

     ホテルのスタッフは簡単な英語であれば対応してもらえましたが、少し難しくなると、音声入力の翻訳(通訳)アプリを活用されていました。AlipayやWeChatのアプリにも翻訳機能がついていて、使ってみようとわたしも試みたものの、音声翻訳は最後までうまくいかず。次に訪中するときまでになんとかしようと思います。

    杭州滞在編
     とにかく会場が広かった……。

     部屋から部屋へ移動するだけですごい運動量。一日平均1万4千歩くらい歩いていました(自分のApple Watch調べ)。

     西湖の夜のショーも見せていただきました。G20開催の際、VIPの皆さんに披露されたのと同じショーだそうです。

     土地とマンパワーの圧倒的な豊かさが伝わってきました。マンパワー豊かすぎて、4羽の白鳥も5×4羽の白鳥に。
     おもてなしとは、国威発揚とはこういうことか、と唸りました。

    上海お散歩編
     再び上海に戻った最終日前夜、少し時間があったので、歴史的な建物が立ち並ぶ延安中路あたりをお散歩しました。

     上海展覧中心

     静安寺

     上海蟹(よっぱらい蟹)

     ホテル

     ホテルの近くはフランス租界っぽさも残りつつ、少し歩くだけで、繁華街も楽しむことができました。もっとゆっくり来たい!

     

     

  • 頼まれてもいないのにがんばること

    ここ数週間のNHK朝ドラ『虎に翼』は、主人公・寅子にとって試練続きだった。

    恩師である穂高先生との正面衝突と和解、恩師の死を乗り越え、仕事に邁進するも、後輩の女性修習生たちからは煙たがられ、離婚調停を担当した不倫妻からはカミソリを向けられる。そして、新潟への異動話をきっかけに、家族とも正面衝突を迫られる事態に。

    寅子に向けられた厳しい言葉は数々あるが、聞いていてわたしが一番つらかったのは、猪爪・佐田家を共に支える義姉にして親友である花江ちゃんの「そこまでがんばってなんて頼んでない」だった。
    寅子は女性法曹のパイオニアだが、誰も彼女にそうなれとは頼んでいないのである。誰にも頼まれないことをがんばり続けることの苦しさと意義に、ここまで正面から向き合ったドラマがあっただろうか。

    少し振り返ってみる。
    寅子が法曹を志したとき、母親のはるさんは、地獄を見る覚悟はあるかと問いただしていた。はるさんが言っていた「地獄」がどのようなものか、歩み始めたばかりの少女だった寅子に十分想像できていたはずもない。
    寅子の家庭は裕福で、偏見もないから、学び続けること自体は「地獄」というほどではなかったはずだ。しかし、同窓の女性たちのさまざまな立場に触れるにつれ、寅子は少しずつ、自ら背負ったものの重さと意義に気づいていった。
    だからこそ、妊娠を機に、敬愛する穂高先生の言葉に心を折られて歩みを止め、涕泣するしかなかったときの寅子の悔しさと不甲斐なさはどれほどのものだっただろうと思う。よねさんに責められるまでもなく、寅子自身が自分をいちばん責めていたはずだ。

    敗戦、そして夫と父の死を経て、寅子は再び法曹の道に戻り、男性家長のいない家を懸命に支えている。何も法曹でなくてもよかったという意味では誰も「頼んでない」が、身につけた専門性を生かす意味でも、寅子が自分を取り戻すという意味でも、そして家族の中で誰がそれをできるかという意味でも、「これ以外ない」選択だっただろう。
    実際に寅子はきちんと職責を果たし(その果たしている描写をもっと厚くしてほしかったと職業人としては思うが)、家裁メンバーに愛され、寅子に対して厳しかった桂場に「腹立たしいが君は有能だ!そして俺達に…好かれてしまっている!」と言わせるようにすらなった。
    しかしその一方で、娘の優未ちゃんをはじめとした家族や、後進の女性たちにも「スンっ」を強いてしまうようにもなってしまった。その相克が爆発したのがこの数週間の『虎に翼』だった。

    これほどつらいジレンマがあろうか。
    ある。
    寅子とは時代も立場も違っても、このつらさは今、自分が自分を保ちながら、家族と社会の最善を望んで生き、働き続ける道を模索するすべての人たちがもっているものだと思う。

    わたしたちが生きる世界を変えてきたのはいつも、「頼まれてもいないのにがんばってきた」人たちだ。その孤独を理解し、そこに光を見いだすことができるのは、同じように望まれない道に踏み出し、傷つけ、傷つきながら歩みを止めないわたしたちだ。
    それがわたしたちであると言えるように、そして傷つける人をもっとなくせる生き方を生み出せるように、わたしは生きていきたいと思った。

  • 映画『関心領域』の “音”(ネタバレあり)

    音の情報量の多さが印象的だった。

    何の映像もない長いオープニングに流れる音楽。メインの弦がサイレンのような音をこれでもかと繰り返すのだが、ドップラー効果のようにだんだん低くなりながら、音の大きさは変わらない。遠ざかっているのは何で、遠ざけているのは誰なのか。不協和音のように聞こえるが、しっかりとした美しい和音が際立つ。
    対照的に、エンディングに流れる音楽では、無数の叫び声が次第に力を増していく。それこそ耳を塞ぎたくなるほどに。

    本編では、常にいろいろな音が後ろに聞こえてくる。汽車が走る音(お察しのとおり、囚人を運んでくる汽車であることが後で示される)、乾いた銃声、ドイツ人ともユダヤ人ともわからない叫び声、あからさまに囚人を虐げる怒声、それに対して囚人が上げる声、そしてヘス一家の末娘である赤ん坊の泣き声。
    ここを「最高の環境」と言うヘス夫妻にはこれらの音が一切聞こえないのか、と見ている我々は思わざるを得ない。実際、引っ越してきた彼らの老母は耐えかねたのか、すぐにその家を去った。

    我々は、と書いたが、視聴者の中にも聞き流した人は大勢いるだろうと思う。
    ろう者向けにはどういう字幕になるのだろう。